元長野県知事・田中康夫氏が学生時代に書いた「なんとなくクリスタル」が話題になっていた頃、私は東京の大学の経済学部で学んでいた。
「なんクリ」に溢れる記号的商品的群とそこに群がる人々の姿が、「消費行動の理論」の世界とは、かなり隔たっていることを感じた。
経済学で消費者は、所得という制約下で人間の欲求(効用)を最大化するように行動すると学んだが、それはあくまでも「欲求」の対象たる物の世界で、なんクリ族は商品がもたらす差異性やシンボル性を追求し消費しているかのようだ。彼らは「欲望」の対象たるモノの世界の住人なのだ。
そして人々の消費活動は、欲求を自己満足的に満たすのではなく、商品の消費を通じて自分自身をも記号(サイン)に置き換えていくようにも見える。
その時代ブランドとは、商品の世界の話だけではなく、学歴や結婚に至るまでがそんな見方がなされた、そんな社会の風潮を田中康夫氏は「なんとなくクリスタル」でカタログ風に切り取ったといってよい。
では、欲望の対象となる記号的商品群とは何か。
一般に「記号」は二つの側面をもつ。一つは「記号内容」とよばれるもので情報の内容を表していること、もう一つは「記号表現」とよばれるもので、情報が相手に知覚され得るということをさす。
そして言語とは、語義と語形から成り立つ記号(サイン)とみてよい。
そして「語形」がどういう「語義」と対応するかは社会習慣としてきまっており、こういう決まりのことを言語学では「コ−ド」とよんでいる。
そして何らかの特定の情報を伝えんとする目的をもったモノに対しても上記の概念は適用可能である。例えば「制服」などがそうで、もともとこれらは表現や伝達を意図されたモノであり、多かれ少なかれ明確な「コ−ド」によってそれぞれに対応する意味が社会的に取り決められている。
一般に記号論的にみると、生活品が純然たる「欲求」の対象であるかぎり、ふつうの意味での物(語形)であるが、これらが「欲望」の対象となるときに、モノ(語義)ということになる。
そして我々を取り巻く様々な対象は、一定の文化的な意味をもつ「記号」と考えることができ、それ故に我々はあらゆる種類の「記号」に取り囲まれ、あらゆる種類のものを「コ−ド」にしたがって解釈しながら生活しているのである。

我々は、言語やモノに限らず、それ以外にも非言語つまり、言葉以外のしぐさや表情などのノンバ−バル(非言語)な「サイン」にも囲まれているのだ。
しぐさが決定的に大きな役割を果たした映画が「ジャッカルの日」である。1960年代のフランスでド・ゴール政権に不満を持つ秘密組織が、大統領暗殺を目論むが、ことごとく失敗に終わってしまう。そこで最後の手段として、凄腕の殺し屋ジャッカルにド・ゴール暗殺を依頼する。この計画をいち早く察知したフランス警察のルベル警部はジャッカル暗殺計画に立ち向かうが、ジャッカルの照準は着実にド・ゴールを追いつめていく。
この映画は実際にあった大統領暗殺計画を描いた、フレデリック・フォーサイスの傑作小説を映画化したものである。狙う側と狙われる側、双方のストイックな闘いが淡々と描かれている。
ドキュメンタリータッチの演出もあいまって、観る者をひきこんでいくサスペンス映画の最高峰といえるのだが、そのクライマックスの狙撃の場面は不評が多いようだ。
大統領が予期せぬ動きをしたため、ジャッカルの放った弾丸がそれてしまうのだが、映画ではそれだけのことで、アレッ?で終わってしまう。
ところが、原作の方にそのへんの解説がのっている。その瞬間、何故大統領は動き、ジャッカルは狙いをはずしたのか。以下は原作からの引用です。

照準器の十字の線の中点がこめかみに合わさった。やわらかくやさしく彼は引金をしぼった。次の瞬間、彼は信じられないという表情で、駅前広場を見下ろしていた。
炸焼弾が銃口から飛び出す前に、大統領は、ついと頭を傾けたのだ。ジャッカルが茫然として眺めていると、大統領は、前にいる退役軍人の両頬に、おごそかに接吻した。大統領は長身なので、祝福の接吻を与えるためには、ちょっと前かがみにならなければいけないのだ。
この接吻は、フランスその他のラテン系民族の習慣なのだが、アングロ・サクソンであるジャッカルは不覚にもそれに気づかなかったのである。


ドゴ−ルの接吻のしぐさは意味をしれば、ラストは充分に厚みを増しているのだが、それが映画では充分に伝わらないのが残念である。

ノンバ−ババルな仕草や行動は、その意味や意図を充分に読み取れない場合に、お笑い系からシリアス系まで様々な出来事を引き起こす。
最近流行語となったKY族、「空気が読めない」族は、結局、そうしたノンバ−バルなコミュニケ−ションにおける不全感のある方々ということか、と思う。
普通に会話する場合でも、言語部は3割でノンバ−バル(非言語)部は7割でコミュニケ−ションがなされているそうだ。したがってノンバ−バル部分の理解が不足すると、あらぬ、いらぬ、妄想を抱きがちで、サインの読み違いからストレスとなり、笑い事ではすまない事件なんかに発展することにもなる。
要するに現代日本社会は、誤ったサインの出し方、誤解を招くサインの出し違い、サインの読み違い、などに特に気をつけないと、ヤバイよ、というそんな社会風潮なのだ。
「私はこれで会社をやめました」という時に、立てる指を間違ったりしたら変だし、石鹸を送ったら相手から「俺は臭いのか」と敵意を抱かれたり、妊婦と思って席を譲ったら単なるデブで失礼なことをしてしまったりと、あるゆるミスリ−ディングの陥穽にあふれているのが現代社会なのだ。
ある社会科教師の思い出の「お笑い玉手箱」から一つ引き出すと、その先生若き日に、天神のオフィス・ビル2階の窓から若いOLが自分に向かって手を振っているので、ハットして即座に手を振り返した、ついでに微笑み返しまでもサ−ビスしたら、どうも彼女の手の動きの幅が大きすぎる。
よくよく観察するとそのOLは窓拭きをしていたのです、というものであった。
彼のために弁解すると、教師というのは巷に自分の教え子が多くいるので、誰かが手を振ったら、即座に手を振り返すという天皇陛下のような習性があるのです。
それにしても一度つくってしまった「微笑み」のあと処理にさぞや困ったことでしょう。(ハイッ!
大竹しのぶさんデビュ−前の話。大竹さんがタバコ屋の手伝いをしていたら、若い男がきて自分にむかってピ−スとVサインをおくる。彼女もそれに対して何度もピ−ス、ピ−スとVサインを送り返したら、男はあきれたようにその場を立ち去った。
彼女がタバコにピ−スという銘柄があるのを知ったのは女優になってから、つまり立ち去ったあの若い男が彼女におくったVサインとは、ピ−ス二箱という意味であったのだ。(あとのフェステイバル!)

最後に異文化にまつわるサイン違いの話です。私の知っているある外国人神父は、色彩の強いカラフルな服を着た女性信者達に、「色っぽいですね」を連発して、教会から追い出されそうになった。
ホ−ルド・アップといわれて、ポケットから財布を出そうとして撃ち殺されたというケ−スもあるが、これはホ−ルド・アップの絶対性に対する認識不足が原因だ。障害者に手を貸そうとして体に触れたら撃ち殺されたというケ−スもあるから要注意。
平和な世界のサインの読み取り方と、悪意に満ちた世界のサインの読み取り方とは、全然違うのだ。不信を招く行為は、即死をまねく危険性がある。アメリカで起こった日本人留学生の「フリ−ズ」射殺事件など典型的なケ−スである。
ところで「死に装束」という言葉があるが、これは日本文化を語る上で興味深いものがある。
死者は「死者のサイン」を身にまとう。一番わかりやすいのが額につける「三角巾」であるが、それ以外にも死者にまつわるサインは色々ある。
欧米では死化粧をするくらいだから肉体を重視する。お棺も家具のように立派である。これはキリスト教の復活信仰に基づくものであろう。
日本では、戦没者の遺骨拾いなどでもわかるとおり骨に対する崇拝感があるが、棺は簡素なものである。これは霊魂が事物(骨)にやどるというアニミズム的世界観の表れである。
ただ神社を思わせる霊柩車は日本独自のものであり、一つの文化でもある。
日本人は、もともと仏教とは違うあの世感をもっており、この世もあの世もそう違わない生活をしていると考えていた。天国も地獄もなく、あの世は天の彼方にあり、そこでは先にあの世へきた御先祖様が待っているのである。
ただ、この世とあの世は、何もかもあべこべで、風習もあべこべである。この世の人が右前に着物を着るとしたら、あの世の人は左前に着物を着る。この世の人が、お茶に水をうめるとしたら、あの世の人は水にお茶をうめるのである。
北枕で寝るなとか、靴下(足袋)をはいたまま寝るなとか、親から注意された のも結局は、死人の真似をすると縁起が悪い、ということでしょう。
昔、豪華客船から暗い海に飛び込んだのは誰かと探している時、靴をそろえてあったところから日本人と判明した、という話もある。あの世へはちゃんと靴をそろえないと渡れないという日本人の意識が、解明のカギとなったのである。
そういえば私の高校時代、ポ−ル・マッカ−トニ−は実は死んだのではないか、との噂が広がったことがある。理由はビ−トルズのアルバム「アビ−ロ−ド」でビ−トルズの4人が道路をわたっている写真だ。ポ−ル・マッカ−トニ−だけが裸足で道路を歩いている。あれは一体何のサインなのか、いまだにわからない。別に意味はないといわれても、ファンなら気になるよね。

スポ−ツの世界ではサイン出し違い、読み違いは決定的だが、人生には、「サイン無視」が功を奏することもあるというのも事実で、人生には試合展開以上に予期せぬことが多く、計算どおりにはいかないということなのだろう。