作詞家の故郷


人は、雑多な煩いを抱えながらよくも生きていられるものだと思う時がある。
夫婦仲に悩む結婚カウンセラ−もいるし、訴えられる弁護士もいるし、ウツに悩む精神科医いるし、生き方に迷う教師もいる。
心の重荷を表面には出さずに、それを振り払うかのように晴れがましくも生きる人はたくさんいる。
あのク−ルでスマ−トな人がそんなにも多くの問題を抱えていたのかと知り、その人の「偉さ」を後になって教えられたりもする。
しかし一般に、「生きる」とは大事業であるにもかかわらず、全うしたからといって誰も「偉い」とは褒めてはくれない、そういう性質のものなのだ。

ある有名予備校が教員の資質として、「学者であること」「役者であること」「易者であること」の3つをあげていて面白いと思ったことがある。
「易者」とは意外であるが、来年の受験問題の傾向を不思議とあててしまうカリスマと呼ばれる先生なんかがそれにあたるのではないかと思う。さらに面白いのは、教員の資質として人格者でなくて「役者」をあげている点である。
この場合の役者は、仮面をかぶって演技する能力を意味するのではなく、生徒との共感性をもちうる、またはそれを増幅できる資質といえるのではないかと思った。そのために必要な要素が演技といえばいえるだろう。
生徒が本当に求めているものは、それほど立派な忠告者でも助言者でもなく、むしろ自分達と同じ目線で心が分かち合える存在であるのかもしれない、特に心寂しき者にとって。
私は最近、実在の「センセイ」をもとにした映画をふたつみた。アメリカ映画の「ミュ−ジック オブ ハ−ト」のメリル・ストリ−ブ演じるパメラ・グレイ・センセイと日本映画「フラガ−ル」の松雪泰子演じる平山まどかセンセイである。
二人のセンセイ、なにかワケアリで心に重荷をもった人達ではあった。人格者といえるほどの人ではないが、間違いなく生徒達の心を動かしうる情熱に加え、役者的な要素を充分にもったセンセイある。
二人のセンセイは、ニュ−ヨ−クのイ−ストハ−レムの最貧困層の子供達、そして閉山がきまった常磐炭田の少女達の心をしっかりと捉えたのである。

ニュ−ヨ−ク・イ−ストハ−レムの小学校に一人の臨時雇いの教師パメラ・グレイが採用となる。
愛する夫に捨てられ、同居する男性との不安定な関係に悩む二人の子持ちの女性である。
特段めだつことのないセンセイではあるが、特筆すべきことはバイオリンを子供達に教えたいと、かつての赴任先で買い込んだ50本のバイオリンをもっていることぐらいである。そしてこの臨時雇いのセンセイは、そのバイオリンを子供達に与え音楽の素晴らしさを伝えようとする。
イ−ストハ−レムはニュ−ヨ−クでも一番の貧困層があつまるブロックでもある。
学校の同僚教師は楽器を与えても子供達には忍耐力がないし続かないと否定的な意見をいう。
実際に子供達は当初、弦を刀がわりにしたりバイオリンをギタ−代わりに爪弾いてふざけあっていた。 そうした子供達のなかには、祖母を殺害された子供、発砲事件に巻き込まれて命を落とす子供、DVに悩む子供達が多くいた。
黒人の親からは、白人の音楽「キラキラ星」など習わせたくない、バイオリンをやめさせたいといわれる。 別の親からはパメラ・センセイの口が悪すぎ子供が真似るので、もっと上品に接っしてほしいと抗議もでる。
そこでパメラ・センセイ、無理に上品に教えようとしたところ、子供達は逆に気持ち悪いと元の口の悪い先生でいて欲しいと願う。そのうちバイオリンをもった子供達に何かしらの変化がおきはじめている。
義足の子供が夜遅くまでバイオリンを一人残って練習している。子供達の目に輝きが宿りはじめているのだ。
一方でパメラ・センセイは私生活では、離婚した後に同居した男性にも去られ、子供達からもそのことを責められるなど悲嘆の日々が続いていたのだ。
しかし、パメラのバイオリンクラスは学校や地域で評判になり、しだいに認知されはじめていく。そして教えた生徒の数は千数百にも達した。しかし突然にニュ−ヨ−ク市が予算削減を発表しバイオリンクラスの打ち切りが決定したのである。
市に抗議するが聞き入れられず、校長とパメラ・センセイは親を巻き込んでクラスの継続をはかろうと結集する。その時、有力な音楽関係者を知り合いにもつ一人の親がバイオリン・コンサ−トを開いて資金を集めてはとうかと提案した。
こうした集まりがきっかけで、バイオリン・クラス打ち切りを学校側が抗議していることが新聞に掲載され、このクラスのことが広く世間に知れ渡ることになる。
市の施設をコンサ−ト会場として借りることになり、子供達は本番にむけバッハなどの難曲の練習に取り組み、同時にコンサ−トのチケット販売も行っていった。
しかし思わぬことがおきる。コンサ−ト会場の水漏れなどが発見され、会場の補修が本番までに完了できなくなったのである。その結果、別の会場でコンサ−トを開かざるをえなくなったが、事態は思わぬ方向に展開していく。
保護者の知り合いの音楽家の働きかけなどにより、世界のミュ−ジシャンの殿堂・カ−ネギ−ホ−ルでのコンサ−トが開かれることが決定したのである。
パメラ・センセイと子供達は思わぬビッグニュ−スに喜びたじろぎながら、一丸となって練習にはげんでいった。 コンサ−ト当日、イ−スト・ハ−レムの子供達の演奏の背後には著名なバイオリン奏者達も並んだ。
そして子供達とのコラボレ−ションは会場を感動の渦に巻き込み、観客は彼らの演奏にスタンディング・オベ−ションで応えたのである。
女性教師パメラのバイオリンクラスは自力で3年間継続し、その後は財団に引き継がれ今日も続いているという。

1970年代、閉山する常磐炭田跡にハワイアンセンタ−を作り地域の再生をはかろうという計画がもちあがった。映画「フラガ−ル」は、東京よりダンサ−を招いて炭鉱の娘達にフラダンスを学ばせハワイアンセンタ−の踊り子に育てようと悪戦苦闘する話である。
娘達が肌を露わにフラダンスを踊ることに、当然に親の不信や抵抗も強い中、東京からやってきた平山まどかセンセイは様々な陰口をたたかれる。
「だいたいSKDだかなんだか知んねえけど、一流のダンサ−ならなんでこっだ田舎に流れてきたんだ? 本物なら都会のでっけえ舞台で踊ってっぺさ。所詮オメ−捨てられた身だべ」
一方で、まどか先生の指導で最初はぎこちなかった炭鉱の娘達の表情にしだいに晴れやかさが宿っていく。そして一人の娘の次の言葉が印象的だった。
「今まで仕事っつうのは、暗い穴の中で歯食いしばって死ぬか生きるかでやるもんだと思っていた。んだけど、あんなふうに踊って、人様に喜んで貰える仕事があってもええんでねか」
平山まどかセンセイは親達にお願いする。「ハワイアンがヤマを潰すっていいますが、この子達はヤマを救う為に歯を食いしばってがんばってきました。立派にプロのダンサ−になりました。オ−プンの日には、どうか晴れ姿を見に行ってあげてください。お願いします」
  まどかセンセイは結局、フラダンスの練習のため親の葬式にも顔をだせないという抗議をうけ、常磐を去るのであるが、別れ際に列車のプラットホ−ムで娘達が踊ってみせ、センセイとの別れを惜しむシ−ンが印象的であった。

映画でみた二人のセンセイの共通点は、過去に降りかかった問題を引きずり悩みながらも、様々な誹謗や中傷の中、生徒達に自分が伝えんすることを恐れずストレ−トに開陳し、せいいっぱいに自分を生徒達にぶつける姿にある。そこに、はからいもなければ点数稼ぎもないし、相手の感謝さえも期待しない潔い姿なのである。
女性教師パメラを演じたメリル・ストリ−ブは、役作りのために実際にバイオリンクラスを見学するのであるが、あのメリル・ストリ−ブがパメラ・センセイの容赦のない指導方法を実際に見て思わずたじろいだという。
また「フラガ−ル」では、自分が失業中なのに娘がフラダンスに興ずるとは何事か、と娘を殴りつけ髪を切った父親に平山センセイはぷっちんし、銭湯の男湯の中にまで踏み込み父親の顔を強引に浴槽に沈めてしまうという壮挙にもでている。
センセイは目の前の生徒達の様々な窮状が自分の内なる涙と通じ合ってしまい、しだいに生徒と一つになっていく。
センセイは教えることで救われ、子供達もそうしたセンセイの姿に救われた、といえる。
ここまでやるかと思うほど生徒に熱心に対峙する中、センセイも何かにむかって手を差し伸べているようにも見える。
教えるほうが教えられ、癒す方が癒されるということか。