日本人は、死んだものに対する意識、特に身近な死者の眼差しをどこかで意識しつつ生きているのではないか、と思う。「草葉の陰」から見守っている、という言葉もあるくらいですから。
これをは、超越者(神)の存在をどこかで意識している、キリスト教やイスラム教のいわゆる「啓典の民」との大きな違いなのではないか。
例えば、彫刻家・高村光太郎は、妻の智恵子の死について「智恵子の半生」のなかで、次のようなことを書いている。

その智恵子が死んでしまった当座の空虚感はそれ故殆ど無の世界に等しかった。作りたいものは山ほどあっても作る気になれなかった。見てくれる熱愛の眼が此世にもう絶えて無い事を知つているからである。さういう幾箇月の苦闘の後、或る偶然の事から満月の夜に、智恵子はその個的存在を失ふ事によつて却て私にとっては普遍的存在となったのである事を痛感し、それ以来智恵子の息吹を常に身近かに感ずる事が出き、言はば彼女は私と共にある者となり、私にとっての永遠なるものであるという実感の方が強くなった。私はさうして平静と心の健康とを取り戻し、仕事の張合がもう一度出て来た。一日の仕事を終つて製作を眺める時「どうだろう」といつて後ろをふりむけば智恵子はきつと其処に居る。彼女は何処にでも居るのである。

「啓典の民」の神の摂理に従おうという意識と、身近な死者の意思を裏切らないでおこうという意識は、当然に異なった行動規範を生むにちがいない。
例えば土地に対する意識について考えると、古代イスラエルにも「先祖の土地」という意識があるが、それよりも神が行けと命じ、住めと与えた「神が与えた土地」(=カナンの地)にたいする執着の方が強い。
ただしアブラハム、イサク、ヤコブなどは死後、カナンの地ではなく先祖の地に共に葬られており、こいう感覚は日本人の場合と共通するものがある。
日本人は先祖が住んだ地に住むことに強い執着があるように思う。そこは先祖が自分達を守り見つめている場所という意識があり、先祖が残してくれた財産(土地)などを思い通りにすることはできない。
そういう抑制の網をかけているものを、ここでは「死者の眼差し」とよぶことにしたい。
柳田国男の指摘のように、日本人の基層意識には、死者の魂が「あの世」にいったとしても、あの世は垂直に天高く存在するのではなく、山の彼方にとか水平的にするもので、比較的身近なものとして存在している感覚である
魂は肉体を離れて「あの世」に行くが、その「あの世」と「この世」がどこかで交叉するしているような感覚さえある。
日本人には、ももともと地獄と極楽の区別はなく、「この世」と「あの世」は隔絶したものではなくその延長線上にある。「あの世」では先祖が待っており、家族単位で「この世」とあまりかわりない生活をおくっている。
結局、日本人が全体的に保守的傾向をもつ(変化を好まない)のも、そうした「死者の眼差し」を意識しつつ、「死者の意思」を大切にしようとする気持ちが、常にあるからではないだろうか
家族における意思決定も、会社における意思決定も、山口組における意思決定も、こうした「死者の眼差し」から逃れることはできず、日本を「死者が物言う社会」としてとらえるならば、日本人にとって自由とは何か、(死者にも発言権があるならば)民主主義とは何か、などということもそうした観点からも考え直させられる。

遠藤周作の小説を映画化した「深い河」などを見ると、インドでは人の死がいつも目の前にある。ガンジスの沐浴の傍らで死体の火葬が行われ、骨が流される。街角では病死や餓死するものたちの死を見る機会が多い。
しかし、インド人にとって死者をま近に見ることがあっても、死者の側から見つめられる、という意識はどの程度あるのか、などと思ってしまう。
「死者の眼差し」こそ日本人の意識の深層なのであり、日本人はその意味で「死者と共存」しているのだ。
そういう意識は今日薄れているのかもしれないが、そういう深層を、オキナワやアイヌの文化に垣間見ることができる。
オキナワとアイヌは弥生文化の影響を受ける以前の日本人の基層である縄文の意識層が今なお残っていると考えられる。
児童文学者として知られる灰谷健次郎氏は、33歳の時長兄が自殺をする。その死に対して灰谷氏はある事情から自責の念にかられる。
翌年には母つるが死去し人間としての生き方に迷いを持ちはじめる。灰谷氏にとって、長兄の自死は重くのしかかり、ヨーロッパ、地中海、中近東、インドを放浪するが挫折感はさらに強くなるばかりだった。
そして1972年、38歳の時、兄の自死から立ち直れず学校を辞め17年間の教師生活にピリオドをうつ。そして退職後は東南アジアや沖縄を彷徨い歩く。
沖縄を訪れパイン工場に行った時一人の男と出あう。その男は灰谷氏に船を二度沈め妻と娘を殺してしまったと語った。
その話を聞いていた老女が、自分を責めて生きても死んだ人は喜ばんと言い、その彼女も夫をマラリアで殺したと悲惨きわまりない戦争の体験を話した。
さらに「わたしが死んだらおじいさんも死んでしまうさ。わたしは死ねないさ」と告げた。
それに周りにいた皆が肯いたのだという。
灰谷氏はこの時衝撃を受けた。氏はこの時に生命観そのものを根底的に変えられたと振り返る。
命は自分ひとりのものだと思っていた灰谷氏にとって新しい生命観を教えられたのだ
この人達の中にもう一つの生が生きている、つまりこの人達の中に死者が生きているという発見をしたのだ。
そして沖縄の人達が子供に似ていることに気付く。重い人生を背負っている子どもほど楽天的だったこと、苦しい人生を歩んでいる子供ほど優しさに満ちていたこと、などを思った。

最近の遺伝子研究で、先祖の喜ぶや哀しみや、泣き笑いまでも含めてすべての経験が、そっくり我々に受け継がれていることがわかってきている。と考えるならば、我々の意思決定の中に、先祖の意思が含まれている、と考えるころだってできるのだ。
本居宣長が、中国の思想をすべて排除したところに何が残るかということを主題として、日本の「古事記」研究に向かったが、果たして「古事記」が日本人の基層だということは果たしてどの程度いえるのだろうか。
「古事記」の中には、男のかみさまが、なくなった妻の死体を送ってあの世へ行くと、そこで見たものは腐乱した死体だったので驚いて逃げ帰った、という話がでてくる。
本居宣長は、こういう話を基にして古代日本人は「死」を恐れ哀しいものと考えていた、と思ったらしいのだが、「古事記」が出来たのは8世紀で、編集に当たっては中国の仏教思想の影響をうけ、そこには死体を汚らわしいものと考える意識がすでに芽生えていたのである
しかしながら、仏教学者でもある梅原猛によると、日本人の基層意識は、「死」を決して汚らわしいものとはとらえておらずむしろ、死者との「交わり」をむしろあたりまえとしている意識があったことを指摘している。
古代日本人は、葬式のことを「はふる」という。
「はふる」というのは、捨てるということで、死者を葬る所を墓というが、墓は「はかす」という言葉からでたもので、「はかす」というのは、オキナワでは死体の水分をなくすということである
オキナワでは、葬式といっても特別なことはしない、親族が集まって野辺送りをする。
野辺送りとは、死体を墓に入れて終わりで、死体が腐ってから取り出して骨を洗う。そして洗った骨は戻すが、墓の周りの石垣の間に入れておくこともある。
このことは死への恐怖がまったくないために、できることではないだろうか。 オキナワでは「死」と隣り合いながらも、なごやかに共存している。

ところで、啓典の民の原点である聖書の中では、生者と死者との関係はどうであろうか。
もちろん聖書は、絶対の神と人との関係こそ主題ではあるが、人々の死者に対する意識を随所に見ることができる。例えば以下のような記述をどう考えたらよいのだろうか。
イエス・キリストが世に出て説教を始めた頃、ある弟子に「私に従ってきなさい」というと、弟子は、「まず父親を葬りにいかせてください」と条件をつける、するとイエスは、「死人を葬るのは死人に任せておきなさい」という言葉をなげかけるのである。(マタイ8章22節)
最初この言葉を単なるレトリックとしか思っていなかったが、言葉を字義どおりに読みなおすと、パッと、死者の世界を垣間見る思いがするのだ
聖書には他にも、生者と死者との関係をものがたる箇所がいくつかある。
例えば、ゲヘナ(地獄)に落ちた金持ちがこんなところに来ないように、死者のなかから人を選んで生者である家族に伝えてくれと願う話がある。(ルカ伝第16章19節〜31節)
ところが金持ちの願いはかなわず、生者と死者の間にある深い河のごとき隔絶を思わせられる。
他方、S&Gの「明日にかける橋」ではないが、生者から死者にかける橋のごとき救いが書いてある。
もし死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が死者の為にバプテスマをうけるのか」(コリントT15章29節)
死者の為に行うバプテスマとは、「身代わり洗礼」といわれるもので、生きているものが死者に代わって洗礼を受けると、死者の魂が救われるというものである
「身代わり洗礼」は、エルサレムにあった初代教会(原始キリスト教)で行われていたが、キリスト教がパレスチナからギリシア・ロ−マを経てヨ−ロッパに広がるにつれて、行われなくなったものの一つである。