個人も失敗によって学習するように、人類ももう少し「愚行学」を体系的に学んだら進歩するかもしれない、と思う。
私見では、愚行の兆候のひとつが、正義をあからさまに掲げること、ということである。
そして、「エルサレム奪回」に燃える十字軍の兵士のように、または「アジア解放」に疼く日本兵のように、正義の病は、 スロ−ガンが生まれた時からはじまる。
正義病の第一の症状は、正義に酔いしれ正義のプロセズ全体が正当化されるように思うこと。
そうした場合、「正義」の名によって倒した「悪」以上の悪行をするのがこうした「正義」の傾向なのだ。
具体的にいうと、圧制からの解放軍が、実は略奪者であったりすることである。
人間には道義心があり正義の観念が生まれ何とかしなければと思う、それ自体に何ら問題はないのだが、いつしか正義はとても大きな力で守るべきものまでも破壊してしまう。
こうした正義のパラドックスは、国連軍と現地住民との戦いなどにみることができる。
正義病の第二の症状は、正義の適用範囲が恣意的である点である。
正義を主張する人間が、意識的にか無意識的にか行う「ダブル・スタンダ−ド」(二重基準)の適用ということ、である。
「二重基準」とは、自己または自らの所属する集団に対して適用する基準とその外の世界に適用する基準とが異なる、ということである。
さんざん遊びつくしながら妻の浮気は絶対に許さない夫の正義、核兵器を保有しながら核拡散を認めない大国の正義、動物愛護を唱えながら肉食プロパ−の西洋人の正義、「汝殺すなかれ」としながら異教徒を殺せと命じる旧約の神、などの事例が思い浮かぶ。
ところで世界史上、アメリカの独立宣言ほど、正義の普遍性を示すものはないように見える。
アメリカの独立宣言は次の通り、
「凡ての人間は平等に造られ、造物主によって他者に譲り渡しえない一定の権利が付与されており、この天賦の権利の中には生命と自由とを守り、おのれの幸福を追求する権利が含まれている。」
アメリカ人は、この宣言の下でも当時70万人の先住インデアンと、60万人の黒人奴隷は、天賦の人権を有する平等な人間として、つまりはアメリカ国民としては認められていなかったのであり、アメリカという国家は本質的にそうした偽善を内包させているのだ。
つまりアメリカの独立宣言は、ダブル・スタンダ−ドの突出例である

正義病の第三の症状は、良き意図(正義)は、必ずしも良き結果を招来しない、ために事後の混沌は正義そのものを霞んだものにする。
歴史を知るものならば、平和を唱える者が平和を招き寄せるのではなく、反対に戦争の芽を拡大する可能性を知っている。
正義のもとで意図したことが、いかに対極にあるような結果を招きよせるかということを考えた時、人間の理性なるものは根本的に限界、もしくは欠陥があるのかもしれない。
理性の至上性を唱えたのはカントであるが、それ以前に「理性の崇拝」と唱えた革命家がいた。清教徒革命のクロムウェルである。
クロムウェルは厳格なピュ−リタンで、王政廃止を唱えて、チャ−ルズ1世を処刑してしまう。「王権神授説をふりかざす王政は悪い。よってこれを廃止する」という理屈は正しく思える。
そしてクロムウエルは、「王権神授」の国王以上の存在となり、いわば「理性の王国」を築いたハズであった
しかしクロムウエルは国王以上の独裁者で、政治を軍隊が支配しそれがもたらした状況は恐怖政治そのものであり、多くの人にとって王政の時代よりも辛い時代となった。

正義の第四の症状は、正義は足の踏み場や情勢により相貌をかえるものであって、正義は北極星のように不動ではない。
芥川龍之介は「朱儒の言葉」の中で正義について次のように語っている。

正義は武器に似たものである。武器は金を出しさへすれば、敵にも味方にも買はれるであらう。正義も理窟をつけさへすれば、敵にも味方にも買はれるものである。
古来「正義の敵」と云ふ名は砲弾のやうに投げかはされた。しかし修辞につりこまれなければ、どちらがほんとうの「正義の敵」だか、滅多(めつた)に判然したためしはない。


福沢諭吉の有名なことば「天 は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」はよくしられているが、その福沢が、「脱亜論」をとなえて、アジアを捨てヨ−ロッパ列強側につくことを主張し、結果的に日本のアジア支配の思想的背景のひとつを提供することになった
こうした福沢の言葉を吟味すると、「天 は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は、近代国家形成の理念形成上、幕藩体制を否定する為にはなたれた言葉であるからして、彼の全人格と思想を表明するような言葉ではない。
また、明治最大の政争である征韓論論争で、征韓論に反対し西郷・板垣らを駆逐した大久保利通政権が、その舌の根も乾かぬうちに台湾出兵を行っているのをみても、正義を主張する言説などというものが、いかに頼りなく足場を変えるたびに変化するかを教えられる。
どんなに正義を唱えても結局は、一貫した、整合性ある、綻びのない生き方は個人としても難しいが、集団や組織、国にいたってはそれ以上に難しいものだ、ということを教えられる。

また「愚行」でなく、「愚考」ということならば、進歩的知識人が戦中戦後に陥った思考つまり、戦争中ドイツをモデルにしてに日本を支配した全体主義的思考(=高度国防国家の構想)や、戦後はソ連や中国を共産主義ユ−トピアとして礼賛し、その幻想としての正義をもとに日本の現状を批判し、ユ−トピアを模倣せしめんとした過程などが思い浮かぶ。
こういう進歩的知識人は、何も責任をとる必要もなく言いたい放題なので、時代の画期には装いも新にいつでもどこでも登場するので、注意しましょう。それが歴史に学ぶ、ということだ。
「愚行」や「愚考」の論証は多くは「後智恵」なのであるが、それらに多少の共通の特徴が見出されるならばそれを未来に生かすべきだが、むしろ大切なことは人間の理性なるものの不完全性を認識することだ
その度合いにおいて「正義の熱病」は緩和されるように思う。
アメリカ映画「エデンの東」は、正義によって傷ついていく人間(若者)の姿を描いているし、映画のタイトルそのものも「楽園を追放された人間の姿」ということを示している。
それで、大義をかかげ力技で正義を成就せんとする国よりも、たいした理念もなく大義も生まれそうにもない今日の日本の方がまだ生きやすいのかもしれない、とは思う。
ただし、理念なきぶん、大国の大義にやすやすと巻き込まれる危険性はおおいにある。