ささいなことから



「覆水盆に返らず」という言葉どうり一度壊れたものの修復は困難である。ことのほか人心の荒廃と自然の破壊にはそれがあてはまる。
「破壊」と「再生」という反対のベクトルをはらんだ以下の二つの物語(ドキュメンタリ−とフィクション)は、いずれもほんの「ささいなこと」からはじまった。

アフリカ中部に世界第2の淡水湖・ビクトリア湖がある。このビクトリア湖とその周辺で実際におきた出来事をあつかったドキュメンタリ−映画「ダーウィンの悪夢」が2004年につくられた。この話は、今から半世紀ほど前、ささいな試みとして新しい生き物が放たれたところからはじまる。
この大食で肉食の外来魚ナイルパーチは、もともと湖に生息していた魚の多くを駆逐しながら、どんどんと増え、湖の状況は一変した。湖畔の町にはナイルパーチの一大魚産業が誕生し、周辺地域の経済は潤う。しかし、一方では、悪夢のような連鎖が生み出されていったのである。
 湖畔の田舎町は、ナイルパーチ輸出による「魚景気」に沸いた。水辺にはナイルパーチを捕獲し、白身の切り身に加工して輸出する企業が進出し、町には工場が次々と建てられ、町は一大魚加工・輸出基地に姿を変えた。
 仕事を求め、町には様々な人々が集まり始める。職を求める内陸出身の男たち。魚を空輸する旧ソ連地域出身のパイロット達。彼らを相手に売春する女達。しかし、誰もが魚の「うまみ」を味わえるわけではなかった。
 職にありつけない男たちの間には、暴力がはびこり、売春婦たちにはエイズが広がった。エイズで親を失い路上で眠る子どもたちは、魚の梱包材を燃やして出る有毒ガスを吸う。
地元の人間の口には、おいしい白身魚の一切れなど入ることはなく、彼らが口にするのは切り身を取り除いた頭やアラで、それも、半ば腐って虫がわいたものを、油で揚げて食べるのだ。
 ムワンザ空港からは日々、魚をはちきれんばかりに満載した貨物機が、欧州へ向け飛び立つ一方、飛行機が来る時は何を積んでくるのだろうかと、そんな疑問に人々は一様に口を濁すのだが、地元ジャーナリストの1人は、アフリカの紛争で使われる武器が運ばれてきていると断言する。この巨大魚は、湖の在来種を食い荒らし生態系をずたずたに破壊した。
この巨大魚を巡り繰り広げられる悪夢のようなグローバリゼーションは、決して遠い世界の出来事ではない。「北」の資本主義が、貧しい「南」の国々を食い荒らしていくのである。実はナイルパーチを含む白身魚の切り身はタンザニア最大の輸出食品で、日本はEUに次ぎ、日本は第2の「お得意様」なのである。日本でナイルパーチは、味噌漬けや白身フライの材料として、外食産業や給食用に広く使われているという。
(そういえばホッカ弁にはいっているヤツですね、たぶん。) フーベルト・ザウパー監督は言う。
「この死のシステムに参加している個々の人間は、悪人面をしていないし、多くは悪気がない。その中にはあなたも私も含まれている。ただ職務を果たしているパイロットもいれば、真実に目をそむける人、ひたすら生き残るために闘っている人もいる。登場人物はみな実在の人物であり、この現代のシステムの複雑さと現実の不可解さを象徴している。私は彼らを、私たち人類を映す鏡だと思う。」
グローバル化された人類のジレンマという問題を「ダーウィンの悪夢」は問うた。
ヨーロッパ公開時には、その衝撃的な内容に賛否を含む論争までも巻き起こした。2004年ヴェネツィア国際映画祭での受賞を皮切りに、世界中の映画祭で多数のグランプリを獲得、2006年アカデミー賞では長編ドキュメンタリー部門にノミネートされた。ちなみに「ダーウィンの悪夢」のタイトルは、かつてビクトリア湖が生物多様性の宝庫であることから「ダーウィンの箱庭」と呼ばれていたことに由来している。

環境文学の鬼才、ジャン・ジオノは南フランスのプロバンス地方のマノスクに生まれた。彼は1970年、マノスクで75才でこの世を去ったが、彼の絵本「木を植えた男」はすくなくとも世界12カ国で翻訳出版されている。さらにこの作品は、カナダのフレデリック・バックによってすばらしいアニメ−ションとして映像化された。カナダのアートアニメはロシア・チェコ・日本に次いで国際評価が高く、その中でも「木を植えた男」は最高峰といわれている。驚くべきことにバックは色鉛筆を使って一枚一枚丹念に映像化していき、4年半かけて描いた絵の枚数はなんと2万枚に及んだ。
「木を植えた男」の話しは、フランスの山岳地帯のプロバンス地方に一人の若者が訪れたところからはじまる。
若者は、荒れ果てた大地を牧草を求めて遊牧するエルゼアール・ブフィエという孤独な羊飼いと出会う。その時ブフィエは55歳で、荒れ地に「ドングリ」の実を植え続けていた。彼が木を植えだしたのは3年前で、来る日も、来る日も男はドングリの実を植え続けていたという。
当時、生きる目的を見失っていた若者は「木を植える男」ブフィエの姿にいたく感動する。いつ実現するかも分からず、恐らくは生きているうちに成果を見ることはないであろう目的のために、残された一生を黙々と捧げているその姿に生きる勇気を与えられたのである。
しかしその時、ブフィエは家族を失うという孤独と失望のなかにいたのである。彼の周辺の四つか五つの村々は生活は楽ではなく人々はいがみ合い、角突き合わせて暮らしていた。そんな中ではどんなに堅い良心もいつしかさびついてしまおうというものである。
女たちも、ささいなことにも競争心の火を燃やし、お互いへのうらみのスープを掻き回している状態であった。村の人々は、いがみ合い、争いが絶えなかった。争いの絶えぬなかで、心の病と自殺とがはやりとなって、多くの命を奪い去っていた。そんな村の人々の悪い心に傷つけられたのか、ブフィエの一人息子は死んでしまい、奥さんも後を追って亡くなった。
「愛するものを失った男」と「木のない大地」に共通することは、一人ぼっちであることである。そのことに気づいた男は、自分自身と荒れ果てた大地のために木を植え続けた。ブフィエは、その土地で失われた多くの命の代わりに、新しい生命の種を植え続けたのである。
彼は来る日も来る日もかしわの種を集め、選別し、植えた。10年もたつと緑の森ができ、小川のせせらぎもよみがえった。カエデやブナも植えた。植えた1万本のカエデは枯れたが再びブナを植え、さらに彼は12キロも自宅から離れたところに小屋を建て木を植え続けた。そして戦争が起き、彼の行為を知らず自然林と間違う役人がいた。ただ、彼は木を植え続け、森をつくり続けた。やがて、荒れ地は緑の森となり生命を育み、小川は人びとに豊かな収穫をもたらすようになった。
ブフィエは、その不屈の精神と寛大さ、そしてたゆまない情熱を胸に安らかにその生涯を閉じたのである。
  それから何十年か経って、かの若者は中年の紳士となり、ふたたびこの土地を訪れた。すると、かつては荒涼たる荒地だった土地は、今は青々とした樹木が茂る森林地帯になっていた。
 かつての荒れ地は緑の大地に生まれ変わり、空気までもが変わった。人口が増え、生気があふれ、喜びが満ちあふれた町ができた。
ブフィエというたった一人の行為が荒れ地を豊かな大地によみがえらせ、人々の心にも幸せをもたらしていたのである。 あの老人は、いまはこの世にいない。しかし、樹林の中には生き生きとした動物の姿があり、帰ってきた人々の笑い声が響いている。

最後にわが福岡市の人工島(福岡アイランド・シティ)は、世界的にもよく知られた野鳥の宝庫・和白潟につくられました。福岡市がオリンピックを招来し開催しようとしたメイン会場の一つとなる予定だった島であり(幸いボツになりましたが)、福岡市職員の飲酒運転により3人の子供の幼い命をのみこんだのもここの海であり、さらにサイバ−大学という砂上の楼閣のごとき大学がもうけられたのもこの島であり、5年前に福岡市大地震により警固断層が通過するのが発見されたのもここの海です。
こう紹介すると暗いことばかりの哀ランドのようにも思えますが、高速道路から見た薄く陽光に霞む人工島の景色はけして悪くはありません。
ただし長年、和白の海を見て生活してきた人々にとって、そこにある横暴な占拠は、体の芯に打ち込まれた抜きさり難い漆喰のようなものかもしれません。人間は、自然の霊妙な営みについてそれほど多くを知らないし、その結果は予期せぬ時間と空間の中から漸次または忽然と露われてくるのかもしれません。そこで次のサイトをご覧ください。
水と緑のキャンペ−ン(玄界灘の恵みと異変)