海老名弾正と熊本バンド


「名」というものは人が考える以上に深遠なものである、用い方によっては人を殺し世を滅ぼす。
それほど神聖なものだ。
古代の日本人は軽々しくは自分の名前を教えなかった。名前を知られれば、その名をつかって呪いの術の餌食になってしまうことをおそれたのだ。そこで「いみな」というものがつくられたのである。
名前そのものが最高度の個人情報であったのだ。
そして「神の名」に人類の奥義が秘められているとしたら。

聖書を読んでいて面白く感じることがある。人名そのものの中に、その人の歩みがまるで「預言」のように含まれているからである。その典型はユダヤの12部族の長ヤコブに与えられた名前「イスラエル」である。ヤコブは神の祝福が欲しくて神の使者にしがみついて格闘している。そこから神はヤコブにイスラエルつまり「神と争う」という意味の名前を与えている。確かにイスラエルは歴史の経緯からして神に逆らい苦難をなめ教え導かれているようです。
モ-セはエジプトの女官より水から引き出されたので「引き出す」である。この名前は後にモ−セが率いる「出エジプト」を想起させ、加えて人類の救済を意味する「洗礼」をさえ思い起こさせる名前である。
ペテロはキリストが一番弟子シモンに与えた名前であるが、「磐」を意味する言葉である。そしてイエスはこの磐の上に教会を建てると宣言している。
ロ−マ・カソリック教会は、ペテロの墓がありその上にたつのがセント・ピ−タ−寺院がカトリックの総本山となっている。
そしてカソリック教会の正統性の根拠は、キリストの言葉、「あなたはペテロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる。」(マタイ16章)ということに拠っている。
しかし教会とは「建物としての教会」ではない。教会とはパウロがいうキリストの体をさす「共同体としての教会」(エクレシア)で、イエスは、自分の教えを直接伝えたペテロの言葉の上に共同体を建てようといっているのである。(ペテロの墓の上に教会が建っているから正統というのではあまりにも皮相な解釈ではないでしょうか。)
イエスはガリラヤ湖畔で出会ったシモン(英語でサイモン)とよばれた漁師に、その意味で「磐」を意味する名前「ペテロ」を授けたのである。
ペテロの磐の上に立つというのは、結局エルサレムにあった初代教会(原始キリスト教)の上に立てられた共同体こそが真の教会であるということである。しかし実際はエルサレムにあった初代教会の系譜は、キリスト教のロ−マへの広がり(カトリック教会の形成)とともに消えたのではないかという疑問がおきる。確かにそうであるが、聖書(黙示録11章11節・12節)には世の終わりに初代教会は復興するとある。
実際に1900年初頭より初代教会復興の動きが世界各地でおきている。


「名前」ということをキリスト教史の中で考える時に、392年ニケ−ア公会議は世界史上最も重要な会議であった。
ニケ−ア公会議は、私の主観の中では、人類の運命がきまった会議と思っている。
つまりこの会議でキリスト教世界の正統がきまったのである。いわゆる三位一体、神は父と子と聖霊三つの位格をもつというアタナシス派の考え方が、イエスを一人の人間とするアリウス派の考え方をおさえて、キリスト教の正統と認められたのである。イエスを預言者の一人つまり人間とみるという点ではイスラム教はアリウス派と共通することになる。
実はこの会議で「三位一体」の一体の「内実」についてはそれほど深い議論がなされたとは思えないが、 この立場をとるときに「神の名」とは一体何なのか、どうしても迷いと混乱がおきてしまう。
具体的にいうと、信徒は「父なる神エホバ」に祈ればよいのか、「子なる神イエス」に祈ればよいのか、という問題である。 私は神学論に通じているものではないが、一般の信徒にこういう迷いがおきる以上は、「三位一体論」は、いかに「三つにして一つ」などと詭弁を弄しても「多神教」に堕しているといってよい。
実際にユダヤ教徒はキリスト教を多神教と批判している。

この神観のズレは重大な「救い」の問題とも関わってくる。
それは聖書によれば「父と子と聖霊」の名前は単数(英語訳聖書参照)なのである。にもかかわらず父なる神「エホバ」と子なる神「イエス」という二つの名前が存在している。
そして人罪の許しである救いである「洗礼」を何の名前(権威)で施すか、という問題にぶつかるのである。
実際には、ほとんどの教会で「父と子と聖霊の名によって」と宣言し、その名を不問にしたまま洗礼がほどこされているのである。
さて旧約聖書にモ−セが神に出エジプトを命ぜられた時に、モ−セは神に「あなたの名前をなんと民衆に伝えるか」と聞いたことがある。神は「私はあってあるものである」と答えた。この「在る」といのが神の名前「エホバ」の由来なのだが、この答え方は婉曲な表現ともいえる。
つまり「エホバ」は「偉大なる者」程度の自己紹介なのであって固有の名前ではなく普通名詞なのである。せいぜいロ-マの正帝をアウグストゥス(尊厳者)という程度のものなのである。
もっと明快にいうと、モ−セに問われた時、神はその固有の名を名乗ったのではない。
(ちなみにイスラム教徒は同じ神にアラ−という固有の名前をつけている。)
ではなぜ神は固有の名を名のらなかったのか。
それは神のみぞ知るということになるが、聖書には「神の名をみだりに唱えるな」という言葉がある。「十戒」という映画を見られた方は、いとも簡単に偶像崇拝(黄金の子牛像)に陥る民衆の姿をご存知であろう。
では神の本当の名前、神をさす固有名詞とは何か。

ルカ伝24:47 キリストは苦しみを受けて三日目に死人の中からよみがえる。そしてその名によって 罪のゆるしを得させる悔い改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民にのべつたえられる。

使徒行伝2:38 イエス・キリストの名によって、バプテスマをうけなさい。そうすれば、あながたは聖霊の賜物をうけるであろう。

使徒行伝5:40 使徒達を呼び入れて、むちうったのち、今後イエスの名によって語ることは相成らぬと言い渡してゆるしてやった。使徒たちは御名のために恥を加えられることに足るものとされたことを喜びながら議会からでてきた。

使途行伝4:12わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。


以上ほんの一部の聖句からしても神の本当の名はイエスにほかならない。神の名が「イエス」であるということを示す聖句は他にも数多くある。つまり神の固有の名はイエス、父なる神もやはりイエスなのである。
聖書には、洗礼は「父と子と聖霊の名によって」(マタイ28:18)施せ、とある一方で洗礼は「イエス・キリストの名によって」(使途行伝2:38 )施せ、ともある。この二つの聖句の矛盾を解決する解釈はただひとつ。「父と子と聖霊の名」=「イエス」ということである。
「三位一体」の神観に基づきエホバとイエスを分けると、こういう自然な解釈ができないのである。ところで神の名がイエスとはなんだか軽そうですが、エホバの名を内に含んだ深遠な名前なのである。
イエスとはヘブル語の(JAHCSHEA)(ヨシュア)のギリシア語であって「エホバ救い」という意味である。
「父と子と聖霊の名によって」として施す名無しの洗礼(救い)はなんらの権威に基づくものではなく、果たして有効な洗礼(救い)であるのかどうか疑問が残る。

したがって、真の救い(洗礼)とは「父と子と聖霊」の具体的な名前をさす「イエス」の名によって施されるべきものである。

キリスト教の正統を定めたといわれるニケ−ア公会議は、唯一なる「神の名」を不問に付し、そのアマサ故に聖母マリア信仰や各地の聖人信仰などの多神教的崇拝を許し、結局は中世キリスト教の惑乱と暗黒を招いた最大の原因ではないでしょうか。(マリア崇拝や聖人崇拝は異教そのものです)

なおルタ−の宗教改革により原点復帰をはかって誕生したのがプロテスタントですが、原点たる初代教会(ペテロの磐)にどれほど近づいたといえるのかという点では、やはり西欧の在来異教を内側に包み込んだ混成宗教のであることは本質的に変わらないと思います。(え〜と思う人は「ダヴィンチ・コ−ド」をお読みください)

最後に新約聖書より〜
「世から選んで私(=イエス・キリスト)に賜った人々にみ名をあらわしました」(ヨハネ17:6)、「これらの事を知恵ある者や賢いものに隠して、幼な子にあらわしてくださいました」(ルカ10:21)