戦中戦後と、日本と朝鮮の二人の女王の運命が、深く関わりあった。
二人の女王の関係は、まるで玉突きの台上で弾けあったようなものだが、二人の動きには不思議と符牒がある
そして最初の玉の一突きは、オランダの首都ハ−グで開かれた万国平和会議といってよい。
ところで昭和天皇のお后は、久慈宮良子(ながこ)という名前だが、昭和天皇が皇太子(裕仁親王)時代に、お后選びはスンナリとはいかずヒトモメあった。
つまり皇太子のお后選びに政治が介入したのである。
長州閥の元老・山縣有朋らは、良子女王は家系(母は島津家)に色盲の遺伝があるとして、女王及び同宮家に婚約辞退を迫った(「宮中某重大事件」)。
それでも最終的には良子女王が皇太子妃と決定したが、その陰でもう一人の有力な皇太子妃候補といわれた梨本宮方子(まさこ、母は鍋島家)女王がおし出される結果となり、そのままもう一人の朝鮮の女王の運命をも弾き出すことにもなるのである

明治初期より、日本は中国、ロシアととも朝鮮宮廷内の勢力に触手を伸ばし、その支配力の扶植に力を注いできたが、日清・日露の勝利によりついに朝鮮での支配権を握り、朝鮮国内の内政権や外交権を次第に奪い取っていく。
そんな折におこったのがハ−グ密使事件であり、この事件が結果的に、上述の二人の女性の運命を変えていった
ハ−グ密使事件とは、1907年に、オランダのハ−グで万国平和会議が開かれていた時、朝鮮最後の王朝・李朝の高宗は日本の横暴(外交権を剥奪し総督府をおく)を訴えるために3人の密使を送ったが、外交権のない国からの訴えは認められないと拒否され、密使の一人が自決するに至った事件である。
この密使事件は結果的に、日本の朝鮮に対する姿勢をさらに強硬にし、高宗は譲位し、高宗の子が純宗皇帝として即位した。
純宗に子はなく、腹違いの李垠が皇太子(次期皇帝)に立ったが、11歳の垠に、思いもしない事柄が決定した。日本留学である。
日本では将来天皇になるものは、真の帝王学を学ぶために、両親のもとから引き離されて、厳しく教育されるという宮中の伝統がある。
しかし朝鮮王朝にはその風習はなく、ましてや外国の地でそれを行うのである。人々は国をあげて皇太子との別れを惜しみ、日本は最高の礼をつくして朝鮮最後の皇太子をむかえたものの、留学とは名目で、実質的に「人質」といってよかった
ところで朝鮮王室では平均すると、男子11歳、女子15歳で結婚し、女子が年上なのが通例だが、垠には、すでに閔甲完という女性との婚約が決まっていた。
李垠と閔甲完は全くの同じ年、同じ日の誕生という奇縁の二人で、閔甲完は婚約指輪も受け、閔家では一族をあげて婚礼にむけて着々と準備をすすめていた。
ところが当の婚約者の皇太子・李垠の日本留学が決定したため、それ以降閔甲完は十余年、人にも逢わずに婚礼の日を待ったが、1919年に唐突に婚約解消の申し出があり、一族は悲嘆の底に突き落とされるのである。そしてまもなくあの梨本宮方子と朝鮮皇太子・李垠との間の婚約が発表されたのである。
様々な政治的な意図や謀略渦巻くなか、個人の意思などは砂礫となるまで粉砕されていった。
閔甲完は日本を恨む一方で、一度は朝鮮の国母になるべく期待された身に恥じぬように生きる決意をして、一生を独身でつらぬく。
他方日本での皇太子妃争いに敗れた形の梨本宮方子のほうは、自分に与えられた運命を受容しようと、懸命に努力し、朝鮮王朝の皇太子・李垠との愛を育くんでいく。
ちなみに二人の新居が現在の赤坂プリンスホテル旧館である。

ところで、朝鮮は「恨の国」であることを確認しておきたい。「恨」とは、一度抱いた恨みはそれを晴らすまでは忘れない、という精神的志向のことである。
水に流す傾向のある日本人とは対照的で、韓国人からすれば、例えば原爆ド−ムなどを残すのも、恨みを忘れないようにしようという意思表示にしか映らないらしい。つまり原爆ド−ムは「平和の象徴」ではなく、「恨の象徴」になってしまうのだ。となると日漢の歴史に対するアプロ−チや姿勢が根本的に違うことを肝に銘じておかなければならない
実は、李垠と結婚の約束までして破約された閔氏であるが、この閔氏と日本との間にはその婚約破約以前に、日本近代史の汚点のごとき事件が起きている。
もともとの宗主国である中国に加え、ロシアと日本も朝鮮王室に接近するが、日露戦争の勝利で日本支配が優位と思われるなか、三国干渉をうけいれて譲歩した日本にたして、朝鮮ではロシアと結ぼうとする勢力が台頭していくく
その中心が高宗の夫人・閔妃の実家である閔氏なのであった。
こうした親露勢力を排除しようと、朝鮮でロシア公使を招いての宴会などを開いていた時期、日本人壮士、浪人らが景福宮に侵入し、閔妃ら多くの女官を殺害し、そのまま庭で焼き払ったという恐るべき出来事なのだ。
この乙未事変(1895年)として知られる事件は、仮に日本の皇居に外国人が侵入し皇太子妃らを殺害したことを想像すればどんなに恐るべき蛮行であったか、ということが想像できる。
この事件で表向きには日本人壮士、大陸浪人ら働いたか、日本公使館もその計画を事前に知っていたといわれている。
日本によって一方的に婚約破棄をさせられる閔氏一族の一人である閔甲完の「恨」がいかに大きかったかは、想像に難くない。

ところで梨本宮方子と閔甲完のその後の歩みをテレビ番組制作のために取材したジャ−ナりストの本田節子女史は、その著書で梨本宮方子と閔甲完の人生は、まるで「割符」であり、いずれのときも、梨本宮方子は吉の符を、閔甲完は凶の符を引いた、といっているが、必ずしもそうともいいきれないように思う。
1920年 李垠(23才)と梨本宮方子(18才)の結婚となり、婚約破約のためにはじき出された閔甲完は、中国の上海に亡命する。上海には、朝鮮の臨時政府がもうけられていた
日本政府は様々な人に手を廻し閔甲完をなんとか結婚させようと画策したらしいが、閔甲完は婚約も結婚もほとんど同義であった当時の朝鮮では、名目だけでも皇太子と結婚した以上は再婚などできるはずもなく、いかなる苦難があろうとも東方礼儀の国、朝鮮の儀礼にしたがおうという決意を抱いた。
もちろん一人の孤独な女性として、後の大統領・李承晩らの申し出などもあり、結婚話に心が動かないわけではなかったが、朝鮮女性の礼節と気概を世界に示さんとする彼女の決意を覆すまでには至らなかった。
ただ婚約から40年以上の歳月が流れた1963年に、李垠(67歳)が方子(62歳)とともに帰国した際には、閔甲完は垠の訪問をひたすら待ったが、それもかなわなかった。
李垠の帰国は大歓迎をうけたものの、すでに李垠の脳軟化症は進行し、歩行も困難な状況であったという。
閔申完は生涯独身を通し、日本の敗戦により1946年上海より帰国し、社会事業などにも関わり、1968年72歳で癌のために釜山で亡くなっている。
ところで梨本宮方子の方も様々な試練に見舞われている。まず第一子がわずか8ヶ月で突然に亡くなっている。その死は原因不明のままである。
実は、方子が天皇家ではなく朝鮮王朝に嫁がせられたのも石女(うまずめ)であったためで、日本側には、李王朝の血統を途絶させようとという思惑があったらしい
ところが方子に子が生まれたために、方子を石女と診断した医師は殺され、確証にまでは至っていないが、方子の第一子の死にも日本側が関わったという説がある。
数年後、方子はもう一人の子(第二子)にめぐまれたが、その後李垠は脳血栓で倒れて植物状態となり、ついに1970年に70歳で亡くなった。
景福宮の別宮である昌徳宮にあって、方子の中には常に自分は日本人という意識は常にあったにちがいない。しかし朝鮮の土になった第一子への思いは消えず、自らも朝鮮の土に身をうずめようという決心がついたのかもしれない。
韓国では、方子に対して「妖婦」というような見方もなされ、様々な批判や糾弾をうけながらも、方子は朝鮮のために自分ができることを自ら問い、夫の母親(高宗の側室)が設立した女学校なども訪問する一方で、精神薄弱児や障害者のための施設を設立し福祉活動に励んできた。
梨本宮方子は癌のために病状が悪化し、1989年に昌徳宮楽善斎で静かに亡くなった。
閔甲完と梨本宮方子の生は接点なくパラレルではあったが、日朝間の狭間で相互に強く作用し合ったという点で、運命的にはまるで姉妹のようであった、といえよう