作詞家の故郷


正月などに人々がコインを賽銭箱に投げ込むのは、日本の風物詩だろう。
受験、結婚、安産、金銭、健康、恋愛、交通安全、家内安全、あらゆる願いを「たった5円玉」にこめて、柔らかな放物線を描くように賽銭箱に投げ込むのです。
ちなみに、「ロ−マの休日」で有名になったトレビの泉には、後ろむきでコインを投げ込むと願い事がかなうという。2枚では大切な人と永遠に一緒にいることができ、3枚になると恋人や夫・妻と別れることができる、のだそうだ。
真似して後ろ向きに投げ込んだりすると、前方のオヤジの禿げ頭後頭部に当たったりして、妙なゴエンができないとも限りませんが、袖すりあうも他生の縁という諺もありますから、いかなるゴエンも大切にしなっきゃ。

ところで黒沢明監督の名作「隠し砦の三悪人」のリメイク版を見に行った。天神東宝のナイトショ−を見にいったら客は何と私一人、自分は何か間違ったことをしているのではないか、とあまりの寂しさに凍え死にそうな気持ちでいると、途中から売店のお兄さんが仕事をさぼって見にきてくれたので、多少気持ちが明るくなった。
この映画のリッパなことの一つはタブン当時の村の祭りの姿を一応正しく伝えている、ということだ。
村の祭りは、日没から翌朝の日の出まで、領主・部外者の立ち入りを許さずに、農民(氏子)達が踊り、祈願する。
この映画に見るとおり「村の祭り」の最も基本的なことは、踊りを含めて共同の祈願ということである。しかし、近世以降そうした村の祭りに変化がおきはじめた。
神祭りとは、神と何らかのつながりのある特定の人々によって執り行われるのが本来の姿であるが、氏子以外の見物人 もやってくるようになるにつれ、祭りがイベント化していった
つまり祭りに山車などが登場し見世物化すると、祭りの時間帯までもが見物人の時間帯にアジャストされ、昼間に行われるようになったのである。
部外者が村に立ち寄り始めると何がおきるか。いつもお世話になっている神様にはそれなりのことはしているのだが、たまたま旅して神祭りを見て、そこの神様に何がしかの畏敬の念を抱くことにもなれば、なんらかのささげげモノでもしたくなる。そこで賽銭箱がおかれるようになったわけだ。
宴会の時、親和会会員以外の人々からも、参加費を負担して頂くのとちょっと似ていますね。

村に賽銭箱が置かれたということは、村人自身の意識にも重大な変化をもたらした。
村では通常、氏神に対して共同の祈願をするのが常であったが、賽銭箱の登場によって「個人の祈願」が行われるようになった。
もちろんそれまでも氏子の中で、一身上のことを祈願するものがあらわれたら、神主に村祭りとは別に特別の参拝方式を依頼していたのだが、その必要性もなくなった。
村全体の幸福への願いだけではなく、個人の幸福の願いごともなされるようになったわけだ。
そして共同の祈願から個人本位の祈願を象徴するのが「賽銭箱」である。
これが意味するところはヨ−ロッパで、従来のラテン語訳聖書で聖職者階級しか解することができず、人々はキリスト教会のヒエラルキ−の力に服し、天国も地獄も教会の口先三寸だったのが、マルチン・ルタ−のドイツ語訳聖書により一人一人が祭司として聖書にアクセスでき、「個人主義」を生み出したのと、同じような効果を、賽銭箱がもたらしたなどというつもりはまったくない。
賽銭箱が人々にもたらしたものは、「個人主義」などというものではなく、むしろ「神祭りの日常化」、もっといえば「信仰の世俗化」ということになろうか。
祈願の個人化は、お百度参りといった風習を生み出し、さらにいつ神社に出かけても神々がつねにいますかのような神観念を一般化させた。
これは伝統的な神観念とは全く異なる。日本の伝統的な神観念とは、神と出会う、神に仕えるためにはそれ相応の大変な手続きを要するのである。
日本の伝統的な神祭りにおいては、厳重な忌みごもりもりこそ祭りの大前提なのである。
祭りに参加するものは、食べ物を制限したり、夏冬問わずに海水をあびたり、旅行、会合を控えたり、性的な交わりを一定期間断つことにより、心身ともに清らかに神々に出会える状態となって、ようやく清新な気持ちで神祭りを執行したのである。
神はこちらが会おうと思えばいつでも会えるという簡便さ。本来は、川や水をもって身体を清めなければいけなかったのが、「手水鉢」によって手を洗い、口をすすぐことによってことたれり、ほとんど日常の生活を維持したまま、または日常に多少の変化をつける程度で神に近づけるようになっていった。
その潔めの不十分さを補うかのように、神主が人々のお祓いをするのである。
そして参拝というものが本来、神の前に長時間伺候するのものであったのが、一回限りで短時間で済むようになっていった。かしわ手3回、1分黙祷ですむ程度のものになったのです。
神祭りは、もともと日常の生活をいったん中止して村人全員が長期にわたる忌みこもりに参加するなど、日常とは異なる生活をつくり出すことによって営まれるものなのだ。
このように「賽銭箱」→「祈願の個人化」→「信仰の日常化」というながれを考えると、賽銭箱の影響をけして軽くみなすことはできない。たかが賽銭箱、されど賽銭箱

結局、神道という自然宗教があまりにも日常化し、キリスト教やイスラム教のような創唱宗教のように「超越的」な要素を持たないのも、賽銭箱や手洗鉢に見るように、平凡化・日常化した信仰の範囲内におのずからとどまろうとする日本人の精神の表れである、と思う。
そして様々な宗教的行為を営みながらも、日本人が自らを「無宗教」と自覚するのも、それが「宗教」とよぶのもおこがましいほどに、生活の中に日常的に溶け込んでいるからです。
いいかえるならば信仰もまた四季折々の風物のように、日本人の生活の中の一コマ一コマにすぎず、それを無宗教とか無信仰と捉えてはいけないように思います。