ある町で大地震がおき、命が助かったのは刑務所にいた囚人だけだったという話を読んだことがある。
古代イスラエルの難攻不落の要塞エリコ(ジェリコ)の崩落に際して命が助かったのは、一人の娼婦だけだったという皮肉な話が旧約聖書に出てくる。その娼婦の部屋からは「赤い紐」が垂らされていた。
ちなみに幼少の頃見た外国テレビドラマ「ジェリコ」は、ドイツ軍と戦う連合軍の選りすぐりの兵士たちを描いたドラマであったが、この難攻不落の要塞の名前を題名にしたものであった。

イスラエル人が出エジプトを敢行し、40年荒野を彷徨った後、いよいよ彼らが目指す乳と蜜の流れるカナ−ンの地に入っていくのであるが、そこにどうしても攻略しなければならない難攻不落の城があった。
エリコの要塞である
まずはイスラエルは、侵攻に先立って二人の斥候(スパイ)に街の様子をさぐりに侵入させるわけであるが、その二人が入り込んだ所は、城の片隅にあったラハブという娼婦が住んでいた部屋であった。
二人は、ラハブの部屋から街の様子を仔細に調査しイスラエル軍に伝えるのである。
そして二人はラハブに約束する、これから要塞を攻略するが、ラハブだけは助け出すと。そして子々孫々ラハブの家が栄えるように神に祈った。
そして、ラハブがそこにいる印として部屋から赤い紐を垂らしなさい、ということを命じるのです。
いよいよ、エリコの城の総攻撃が始まるのであるが、神が命じた総攻撃法というのは一風かわっていて、兵隊達が神を賛美しながら城を7回、周回するという単純なものであった
しかし考えてみれば、神を賛美しながら城砦の周るという行為は、これはどう考えても勇壮な兵士のやることではない
モ−セの死後、後をついだイスラエルのリ−ダ−・ヨシュアは、戦闘意欲に燃える兵士達を抑えこむのに苦慮したに違いない。
それでも7回の周回の後、兵士達の「勝ち鬨の声」とともに、城は真っ直ぐに雪崩をうって崩落してしまうのです。 その際に赤い紐の部屋にいたラハブだけが助け出される。
さて、エリコの城の周りを7回まわって勝利をえるなど、「7」という数字がラッキ−ナンバ−なのはこうした故事にもとづくものです
全米図書大賞をとったウォルタ−・ワンゲリンが書いた小説「聖書」では、ジェリコ崩落について次のように書いています。

人生最後の瞬間、王にとってこの世は苦い冗談のように思えた。−よりによってあんな者が最後に生き残るとは! あれは追放されたものの窓ではないか。ラハブという娼婦の

ワンゲリンは、ラハブの救済を「苦い冗談」といっていますが、もっともっと「冗談」なのは、このラハブの血統からダビデ王、そしてその8代後にイエスが誕生することです。
考古学者によるジェリコの街の発掘調査で、科学では説明ができないような圧倒的な力が働き、城が崩落したことが判明しています。 ここでも、考古学は聖書の内容を裏付ける結果になったことを付言しておきましょう。

そこで「ラッキ−7」にまつわるもう一つの話を紹介したいとおもいます。
イスラエルと友好関係にあったスサという国にナアマンという将軍がいました。なかなか勇壮な将軍で王の信頼があった人物ですが、らい病という当時としては恐ろしい病気にかかっていました。
ナアマンは、イスラエルにエリシャという評判の預言者がいることを知り、イスラエルの王を通じてエリシャにあわせてもらうように願います。
その願いは受け入れられて、ナアマンははるばるエリシャに会いにくるのですが、エリシャに自分の病について話すと、 エリシャは、近くの池で水にはいり体を清めよ、それを7回くりかえせということをいいます
ここでナアマンは怒るのです。それは自分のような大将のやることではない。
ナアマンはその預言者が丁重にして荘厳な癒しの儀式でもしてくれることを期待していたが、そんなことは一切なく、ただ貧弱な池で体を洗えとは一体何なんだと。それも同じことを七回繰り返せとは!
私がナアマンについて思うことは、人間というものは色んなワダカマリ、ヒッカカリ、コダワリをもって生きているもので、なかなか素直にはなれない、ということです。
人間は、場合によっては病歴自慢やや犯罪歴自慢までやる生き物で、つまるところ自分はもっともっと大切で重視されてしかるべき人間であることを屈折した形で訴えようとしているのかもしれない。
ナアマンはそんな子供だましの行為で自分の病が癒されるならば自分がいままで苦しんだことは何だったのかと、自分の過去を否定されるようでそんなことはできない、と思ったのかもしれない。
ナアマンはエリシャの言葉を無視して国に帰ろうとするのですが、従者の中に賢い人物がいてナアマンに助言します。
「あなたは、預言者が言ったことが困難なことであったならば、あるいはその通りのことをなさったかもしれません。水にはいるなんてなんでもないことじゃありませんか。」
そしてナアマンはそれを受け入れて水にはいると、らい病が癒され子供の皮膚のように健やかになったと、聖書は伝えています。
ナアマンは、勲章をいくつももっている将軍でもあったことでしょう。そしていつの時代にも、名士といわれる心の中にいくつもの勲章をもっている人々はいます。
そしてイエスの時代にも、律法学者やパリサイ人ら指導者達は、自分達はあらゆる善行を積んで世に名士として尊重されている、という心の勲章をぶらさげている人々でした。
そんな名士が、悔い改めよとか、自分が罪を許されるために「水に入れ」なんかいわれたら、バカナ!と思うのかもしれません。
それは自分のそれまでの過去すべてを否定されることのように思えたことでしょう。
結局イエスを十字架にかけた、心理的要因の一つはそういうものなのです。

ところで、エリコを攻撃するイスラエルにも、らい病に悩むナアマンにせよ、7回水に入れとか、7回城の周りを回れとか、本当に馬鹿みたいなことを命じられているのですが、色々葛藤や煩悶があったにせよそれに従ってみるだけの「心の低さ」はあったようです。それが道(救い)を開いたといえるでしょう。
もちろん、「水に入る」ということが救いの型をしめしたものであることは、いうまでもありませんし、ラハブの部屋から垂らされた赤い紐、そして7回まわるという行為も、すべて救いの型をあらわしています。
赤い糸は、キリストの十字架の流された血を示す「救いの型」ですが、ちょうどそれは、出エジプトの際の間際、エジプトを去らせようとしないファラオ故に、神がエジプトに疫病という災いを下すのであるが、エジプトに寄留するイスラエル人の家の入り口のかもいの柱に羊の血を塗って、疫病の災いを逃れることができた、という有名な「過ぎ越し」の話と共通するものがあります。
聖書がタダの書物ではないことは千年にもわたり「救いの型」を一貫して示し続けているということです

最後に聖書の言葉より、

事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(コリント人T1章21節)