来年より裁判員制度がはじまることになり、私的にはあまり気分が良いとはいえない。
それは、人を裁くことの「重さ」があるからだ。
最近の世論調査では、この裁判員になりたくない人が7割にも達してる。
人を裁くことの「重さ」を考えた時私は、本でよんだことのある刑務官の心の「重さ」を思い出した。
銃殺刑の際に複数の執行者が1人を処刑するシ−ンがあるが、あれは刑執行の重さを複数で共有分散するためであろう。絞首刑の際にも、刑務官は複数の人がボタンを押すらしい。
そしてどのボタンが床板を開く装置と繋がっているか分からないようになっているのだ。
オバカな私は裁判員制度とは、陪臣員12人で「裁きの重さ」を分散緩和する工夫なのかと思ったりもしたし、さらにはアガサ・クリスティ−の「オリエント急行殺人事件」のシチュエ−ション、つまりみんなで殺人の罪の重さを分散するという、イケナイ連想さえもしたりもした。

日本で施行される裁判員制度は、厳密にいうと裁判官と陪審員が共に被告を裁くという「参審制」というものである。
裁判員制度は、一般人が裁判に参加し司法の民主化をはかる、法律の専門家に加え一般人の常識をとりいれる、裁判の迅速化をはかる、などを意図としておりそれ自体悪くはない。
裁判員制度で、その判決は一度は(無作為に抽出された)国民の代表者の目を通した上でのことだから、第一審としては、民意の「お墨付きあり」という安心もあり、裁判の迅速化につながるだろう。
また、やむにやまれぬ事情から肉親を殺さねばならなくなった人を、法律のプロたる裁判官とは違って、一般人の目からみてどうか、確かに異なる視点を提供してくれる気がする。
ただ、陪臣員制度は、アメリカの歴史や文化を背景に生まれ運用されているので、日本に導入した場合にそうした文化的土壌を捨象し制度(形式)のみを取り入れることになる
そして、それがどんな問題を惹起するか、未知数である。

まずは、人(一般人)が人を裁くことの問題である。
戦争や逮捕や刑の執行など「暴力」の行使は国家によって独占され、一般人がフリ−で同じことをやると犯罪となるため、国家は「暴力の独占装置」ともいえる。
裁判員制度は、国家が国民に暴力(刑)を行使するに至る過程に市民が参加するため、「暴力の独占」に歯止めをかけるという意味で結構なのだが、被告を「有罪」とする場合には、自分もその責の一端を担うという「重さ」はぬぐえない。
もともと陪臣員制度はアメリカの西部開拓史の時代に圧倒的に保安官や裁判官が不足し、西部平原に誕生した新しい町では寄せ集めの市民陪審員から構成された裁判で人々を裁いてきた。
そしてあるコミュニテティ−でおきた事件は、コミュニテティ−で裁くという原則みたいなものができあがった
そしてアメリカでは、ヨ−ロッパ以上にキリスト教の役割(信仰)は強いため、裁きと刑罰についても、キリスト教(聖書)の制約を免れることができないのである。

 @本当のことは神のみ知る、したがって人が人を裁くことは不可能。
 A聖書の教えは、人を裁くな、あなたが裁かれないために、とある。
 Bこの世の裁きはどうあろうと、「最後の審判」で神がすべてを裁く。

実はBに注釈を加えると、神は単独ではなく、聖者(救いにあずかった者)と共に、人々を裁くのである。
こうした意識が果たして陪臣員の原型になったとは言わないまでも、それを肯定的にする要素の一つとなったかもしれない。
キリスト教信仰の伝統が強いアメリカで、誰もが知っている聖書の「人を裁くな、自分がさばかれないためにである」という言葉は、陪臣員の心にもかなり強く響くものであろう。同時に陪臣員には、神の霊(聖霊)なるものが働いて、神が正しい裁きを行うという、さらに隠れた意識もあった。
以前、栗本慎一郎氏が新聞に、陪審制の信頼は、そうした人間の霊性への信頼にある、と書いていたのを思い出す。
以上明らかなように、裁判は不完全なものであるではあっても、陪臣員となったものが、自らの魂の正しさを守るためにも虚偽や歪んだ裁きは、自らを危機にさらすことになる。したがって、できうる限り完全を目指すことは結果的に、「合理的疑い」が多少でも生じれば、「推定無罪」ということにつながる。
おそらくは全米にテレビ中継されシンプソン裁判を見て、日本人なら司法取引なんかしてどういうつもり、とか、妻殺害を人種問題にすりかえたりしてとか、陪審員を都合のいい人に代えたりしたとか、なぜあんなことが通るのか、という疑問がおこるが、アメリカ人には一方で、裁く側をも神に裁かれるという、意識があるのだ

人の裁きは不完全にせよ(不完全だから)、社会秩序を維持する範囲でさえあればよく、たとえ人間の過誤により見逃されたり、見落とされたりした事実があったりしても、すべて神がご存知であるから、すべては「最後の審判」まで持っていけばよいという、気持ちも働くのであろう。
そして、むしろ心しなければならないので陪臣員の方で、裁く側の人間も神にによって責任を問われるということへの「畏れ」もはたらくであろう。
裁判で裁かれるのは実は、被告ばかりではなく、警察などの権力側でもある
デュ−・プロセス(正当な手続き)という言葉があるとおり、捜査が適正に行れたか、取調べは適正であったかなどなど、それに対して少しでも疑義があれば、被告は無罪となるのだ。
実はシンプソン裁判で、ドリ−ム・チ−ムといわれた弁護士達につかれたのはそのへんの不適切性で、いつの間にか問題は妻殺害から、人種問題にすり変わっていった。

以上のような宗教的な意識をもっていない日本人は、陪審制度、正確には参審制の導入は、どのような対応を迫られることになるのだろうか。
たとえ裁判官を判決に加え(参審制)、判決が事実認定に限定されるにせよ、やはり不安を覚えざるをえないのである。
もとも陪審員は下級審の裁判官であって、最高裁の裁判官ではないので、そこまで気を揉むなといっても、自己の判断が、被告の運命を最終的に決めてしまうと考えてしまう多くのキマジメな日本人にとっては、尻込みせざるを得ないのかもしれない。
さらに日本人の裁判に対する態度を文化的に考えてみると、つぎのような問題点が浮かぶ。
もともとの歴史を辿れば、陪臣員制度の本質的な部分は、身近な者が身近なものを裁く、ということなのだ。 時として接触のあるもの、すなわち隣人をさえ裁くことになる、ということだ。
私が思うことは裁判官が裁く場合には、裁判官の憲法上の制約はあるが、一般人が裁く際には、そういう制約が憲法上はなく、我々がこの人を裁く根拠が一体どこにあるのか、などという疑問もわく。
こういう制度が出来たので陪臣員をやれというのなら、憲法上のその根拠をしめしてもらいたいのだが、日本の憲法は何処から見てもプロの裁判官の裁判しか想定していないように思う。
さらに、公私の区別がスッキリしない日本人は、「日頃からお世話になってる意識」の義理・人情、さらには「逆恨み」に対する恐れまでが、裁判の行方を曇らせてしまうかもしれないのだ。
日本人は直接的でなくかなり迂回的な関係であっても、ついつい義理人情に乗せられてしまうのだから、ヤヤコシイ。

最後にアメリカン・ジョ−クをひとつ。
陪審員に選ばれた男が、その義務を果たすために自分の職場を長期間離れるのはいやだと裁判官に言いました。
すると裁判官がこう言いました。「職場の人たちはあなたがいなければ仕事にならないのですか?」
陪審員は答えました。「いいえ、でも彼らにそのことを知られたくないのです!」