作詞家の故郷


人はそれほど強いものではなく、周囲の大反対の中一人自説を曲げないというのは勇気がいることだし非常に困難なことだと思う。それでもそれができる信念の人はけしてすくなくないし、スゴイ人達だと思う。
政治家や労働組合の幹部など鉄のような意志をもった強者を見ると、敬意を抱かざる得ないのだが、わたくし的には彼らに人間的な興味は起きない。
反対に、繊細や脆弱さ、時として命消えんとする中にも閃光のように「凛」としたものを発する人々がいる。そういう人を見ると、一体何が彼、彼女をそうさせるのか、という思いにかられるのである。
痩身蒼白の身を周囲の怒号と中傷にさらし、さらに加えられる人格否定の嵐の只中に、なおも揺るがない、
彼らは「内なる声」を聞いたのではないか、「神意」こそ彼らの支えではないのかと、そういうことを考えさせる人達である。
しかし、そうした人々の「内なる声」が発せられた時、その声は大波紋を呼び起こし、利害の衝突、誘拐、戦争さえくり広げられていった。

修道院生活時代のマルチン・ルタ−は、ありとあらゆる苦行をわが身に課し、青白い顔をし憔悴しきった若者であった。人生にはほとんど喜びを見出せず、自分の罪深さと神への畏れや苦悩に満たされていた。
ルタ-が修道院の塔にある自室で聖書講座の準備をしていた時に、突然目から鱗がおちたように聖書の理解が深まり、神への憎しみから神への愛へと心が向き変わる回心がおこった。
これ以降ルタ−のは「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」という立場に立つことになる。神の恩寵に一切をゆだね喜びぬ溢れんばかりの体験をした。
こういう心の開放の体験は外部的な誘導や逆に圧迫から生まれたではなく、間違いなくルタ−の魂の内面より沸き出ずるものであった。そしてルタ−は中世の教会の権威を疑った。中世教会では救いでさえも教会の権威の下に保障されていたからである。
1508年、25歳となったルタ−は、創設間もないヴィッテンベルグ大学から招聘され講義するようになり、1511年にはロ−マへの特使にも選ばれた。しかしルタ−がロ−マで見たものは奢侈にふけり貧しい信徒を喰い物にしているかのような尊大な司教や枢機卿であった。
公明正大な裁判や審議の機会も与えられず、無慈悲なまでに生活を破壊された名もなき信者達の声なき不満が充満していたのである。
1517年、一人の修道士がロ−マより免罪符の販売と宣伝のためにドイツに送られてきた。ルタ−はヴィッテンベルグ城内にある教会の門扉に免罪符に反対する「九十五カ条の論題」を貼付した。罪の許しは神のみで教皇にはそれができないこと、真に悔い改めた人ならば完全に罪と罰から救われることなどが書かれてあった。
この「九十五か条」はすぐさま印刷され、西ヨ−ロッパ中にまったく予想外の速さで広まった。そして大反響を引き起こした。
教皇庁の干渉を常々苦々しく思っていたドイツ諸侯は「九十五か条」に好意的であった。もちろんルタ−に対しては、よくも教皇の存在を認めず、教皇の権威を否定できたものだと攻撃し、激しい論争が巻き起こった。
ルタ−は、教皇庁の使節によりアウグスブルグの国会に召喚をうけ、これまでの言説をすべて撤回することや、恭順書の提出を要求されたりした。
ある神学者との論争の中で姦計にひっかり、異端の言質をとられてしまい、焚刑しか残された道はないかのような危機的状況に陥った。そして1520年に教皇はルタ−をついに破門した。
しかしルタ−は多くの人々の面前でその破門教書を火中に破りすてたのである。
そんな中、イタリアで教皇と対立する神聖ロ−マ皇帝カ−ル五世は、ルタ−の存在に注目し、ヴォルムスの国会に召喚し発言するように仕向けた。この時、ルタ−は皇帝、枢機卿、諸侯、司教達をまえに有名な演説を行った。「私は、聖書によって自説が誤っていると証明されない限り、いかなることも撤回する意志ない」と。
そして最後にあまりにも有名な言葉で答弁を結んだ。「われ、ここに立つ、こうせざるをえない」と。

レイチェル・カーソンが1962年に発表した「沈黙の春」は、農薬の無制限な使用について世界で始めて警告を発した書として全米ばかりではなく世界をも揺り動かした。
私が彼女に興味を抱いたのは「沈黙の春」を書くにあたって彼女が戦わなければならなかったその戦いの大きさである。 彼女自身の病や身内の不幸にとどまらず、そして州政府、中央政府、製薬会社などを敵にまわしての「沈黙の春」の執筆だった。
世に烈女といわれる女性がいることは確かであるが、彼女の写真から見える柔和さや穏やかさはそうした性格のものとは程遠いような気がする。
むしろ彼女は繊細で傷つき易そうにさえ見えるのだが、「沈黙の春」に対する反撃は、彼女自身の人格に対する誹謗・中傷にまで及んだ。彼女を支えた力とは一体何だったのか。
レイチェル・カーソンは地元のペンシルヴァニア女子大学に進みそこで作家になるため英文学を専攻するが、生物学の授業に魅せられ生物学者になる道を歩み始める。
そして彼女は海洋生物学者としていくつかの本を出し、全米図書賞の候補になるほどの本で充分にその名は知れ渡っていた。それは科学者としての観察力と詩人的な閃きが一体となった内容であった。
彼女の人生の大きな転機は1958年1月毎年巣をつくっていた鳥が薬剤のシャワ−によりむごい死に方をしたという手紙を受け取った、ことにある。
DDTは1939年に発見されDDTが害虫を駆逐し大きな収穫の向上が見られその経済的な利益ははかりしれず、当時州当局が積極的に散布していたDDTなどの合成化学物質の蓄積が環境悪化を招くことはまだ表面化していなかったのである。
彼女はいくつかの雑誌にDDTの危険を訴える原稿を送ったが彼女の警告はほとんど取り上げられることはなかった。心を痛めていた彼女は雑誌社の編集者にこうした問題の本を書き上げる人物はいないかと打診したが適当な人物は見当たらず、結局専門家でもない彼女自らペンをとる決心をする。
さらに彼女が本を書くことによって連邦政府・州政府・製薬会社を敵にまわすことはあらかじめ目に見えていたのである。
彼女自身がかつてアメリカ内務省魚類野性生物局の公務員として働き安定した収入を得ていたその政府を相手に戦うことになるのだ。
彼女は本を執筆する際に少しでも疑問を覚えたならば、直接手紙を書いて尋ねたのである。これはこうした専門家達が敵となる政府や会社に対して味方になってくれるという彼女なりの戦略でもあった。
しかしその過程では覆いかぶさるように苦難が待ち構えていた。最愛の母親の死、両親を失った親戚の子供を養子にむかえて育てる負担、そして自身を「病気のカタログ」と呼ぶほどに体中を蝕む病の進行、州政府からの攻撃、そして製薬会社からの反キャンペ−ン、のみならず彼女の人格や信用に傷つける非難や中傷の数々と戦わなければならなかったのである。
1962年、それでも「沈黙の春」は完成する。彼女を支える力はどこから来たのか。まず生物学者としての命に対する高い感性そして彼女自身の「死の予感」。
彼女は友人につぎのような手紙を書いている。「事態を知っているのに沈黙をつづけることは、私にとって将来もずっと心の平穏はないということだと思います。」
1964年春、「沈黙できなかった」彼女はメリ−ランド州シルバ−スプリングで56歳の生涯を終えた。