作詞家の故郷


地球温暖化、テロや核の脅威、など人類を脅かす不安は消えない、そして誰しもが抱いている「崩壊の予感」、人類は救われるのか〜「イエス」。
聖書には人類の究極の「エクソダス」により人が救われ得ることを明確にリヴィ−ル(黙示)している。

「エクソダス」とはもともと聖書に登場する「出エジプト」をさす言葉である。
紀元前10世紀ごろ、飢饉を逃れてエジプトでしばらくの間暮らしたユダヤ人がモ−セに率いられて「乳と密の流れる」地・故郷カナンの地に戻るという映画「十戒」にも描かれた話である。
映画「十戒」で紅海が割れる有名なシ−ンは私の映画鑑賞史に残る強いインパクトをもって今も残っている。
アメリカのロスアンゼルスのユニバ−サルスタジオで、この特撮シ−ンが撮られた場所を見たことがある。学校の足洗い場程の狭いプ−ルで撮影が行われたのを知り、拍子抜けしたのと同時に逆に1960年代のハリウッドの撮影技術の高さに感嘆もした。
1935年、中国で毛沢東率いる共産党が瑞金から延安へと拠点を移した大西遷(長征)もスケ−ルでは「出エジプト」に負けない。国民党の軍におわれての1万2000キロの行軍で、18の4000m級の山脈、17の大河を突破し、最初10万人の兵隊も最後は3万人に減ってしまう。
さらに聖書の「エクソダス」の話は、世界の作家に多くのインスピレ−ションを与えている。
スタインベッグの「怒りの葡萄」は機械化の波に呑み込まれんとした家族がオクラホマからルート66をたどって苦難の旅の末カリフォルニアにたどり着くという話である。しかし結局「乳と蜜の流れる地」カリフォルニアにも楽な生活はなく希望は無惨に打ち砕かれるという物語である。
また作家・村上龍が描いた「希望の国へとエクソダス」は現代日本の「希望以外なら何でもそろっている」という閉塞感に、中学生たちがインターネットを通じて集まったネットワークをベースにビジネスを開始し、独自通貨を発行したりして経済的に自立し、またたく間に北海道に独立した新システムを設立する、という話である。

ところで聖書の最大のモチ−フは、実にこの「エクソダス」といってもよい。
人々を突如おそうディザスタ−(災疫)やカタストロフィ−(崩壊)からほんの少数の人々が救われるという話である。

ソドムやゴモラから脱出したロト、洪水から脱出したノア、エジプトの災厄から逃れたモ−セ以下のユダヤ人などがそうであるが、これらはあくまでも局地的崩落の中からの脱出を物語っている。
しかし聖書の黙示録や「テサロニケ人への手紙」は、全人類的崩壊の中からの「エクソダス」を具体的に教えている。
キリスト教でいう「救い」とは天国における何かとらえどころのない「救い」のようなニュアンスをもって捉えられがちであるが、実は聖書の「救い」は意外なことに「歴史における救い」なのである。ただしそれはヘ-ゲル的な弁証法的発展の末に実現する「世界精神」の実現というようなものとは全然異なり、圧倒的な「神の介在(働き)」により初めて実現する救いでもある。
さらに具体的にいうならば、人類のごく限られた人々が、この地上の崩落からまぬがれてそこから脱出し、その後実現する「神の国」に最終的に入るということである。(そんな神様を誰が信じるもんか、という声が起こりそうですが、神様はけしてヒュ−マニストではありません。)
エジプトは罪の世界である現世に比定されており、地球的なスケ−ルでの罪の世からの(エクソダス)により神の国に入るということである。
そこで救い出だされる者は、イエスの「山上の垂訓」のなかの「柔和な人達は幸いである。彼らは地を受けつぐであろう」のあの「地を受け継ぐ」人々をさしており、救いは天国にはいるという救いではなく、(死者の霊が天に昇ったとしても)あくまでもこの「地上における救い」なのである。

では、宇宙船もないのにそんな地球規模の「エクソダス」が可能であり得るのかという疑問に対し、聖書には、究極の「エクソダス」の経緯が描かれている。以下は聖書に語ってもらいましょう。

マタイ24:洪水の出る前、ノアが箱舟に入る日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らはきずかなかった。人の子の現れるのもそのようであろう。そのとき、二人の者が畑にいると、一人は取り去られ、一人は取り残されるであろう。
二人の女がうすをひいていると、一人は取り去られ、一人は取り残されるであろう。


さてこの「取り去られる」とはどういう意味か。

コリント第一の手紙15:ここであなたがたに奥義をつげよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終わりのラッパの響きと共に、またたく間に一瞬にして変えられる。というのはラッパが響いて、死人はくちないものによみがえらされ、私たちは変えられる。

終わりの時、救われて生きている人間は、「そのとき」一瞬にして不死の霊体へと「変えられる」のである。
では霊化した「朽ちない」人間はどうなるのか。

第一テサロニケ4:すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、 合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主とともにいるであろう。

このように「取り去られる」とは、霊化された人間が空中に引き上げられることを指す。つまり聖句は空中における再臨(空中携挙)を示すものであるがその場面を予想させる聖句として、

ヨハネ4:10 女よ、私の言うことを信じなさい。あながたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。

上記に「死人の蘇り」と、「霊化したものが空中に引き挙げられる」ことが書いてある。様々な人々の「臨死体験」などを聞くと、死によって肉体を離れた霊は、自分の体を「上から」見ているという証言が多いことを思いおこす。
つまり霊化したものは地上にとどまらず「昇る」ということである。 さらに、霊化したのものは、空中で主(イエス)に会うということである。
また霊化したものが天に携挙される姿は、「キリストの昇天」の姿とも重なる。

使途行伝1:こう言い終わるとイエスは彼らの見ている前で天にあげられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。イエスの上っていかれる時に、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣 を着た二人の人が、彼らのそばに立っていて、言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで 立っているのか、あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上がって行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう。

さらに聖徒達(キリストの体たる教会)が引き上げられた後に、地上は、ヨハネ黙示録にある7年間にわたる大患難時代を迎える。この7年間はダニエル書9章20節、ヨハネ黙示録11章、補助的に第二ペテロ3章8節に基づいており、最後の「ユダヤ人の時」すなわちユダヤ王国復興の時にあたる。
逆にいうと、キリストの花嫁たる教会(キリストの体なる共同体)が地上にある限り、最終的カタストロフィ−には至らない、ということである。

黙示録6 わたしたの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない。

そして空中に引き上げられた聖徒達は、主と共にしばらくの間、天にある。 地上の大患難の時代に、ユダヤ人は、ついにイエスが神であることを認め、空中の聖徒達は主イエスと共に地上におりたつのである。その時に7年間の大患難時代は終結し、神の国の到来(ユダヤ王国の復興を含む)するのである。
この主の地上における再臨は、聖書に様々な形で記述されている。

黙示録:11子羊がシオンの山に立っていた。また14万4千人の人々が子羊と共におり、その額に子羊の名とその父の名とが書かれていた。

マタイ25:人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来る時、かれはその栄光の座につくであろう。そしてすべての国民をその前に集めて、羊飼いが羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、ヤギを左におくであろう。

以上のような荒唐無稽な救い(エクソダス)を誰が信じられるものかと問われるならば、人が感覚や経験の世界、つまり肉にとどまるかぎり、この「救い」は荒唐無稽な絵空事、あるいは 噴飯ものでしかないであろう。

聖書には救いについては「水」(洗礼)と「霊」(受霊)を受けよと記されてあるが、聖書全体がもつ霊性は人類の究極の「エクソダス」を繰り返し、テをかえシナをかえ黙示(Reveal)している。

最後に3つの聖句に語って頂きましょう。

ヨハネ1:10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受け入れなかった。

コリントT:2 生まれながらの人は、神の御霊(聖霊)の賜物を受け入れない。それは彼には愚かなものだからである。また御霊によって判断すべきであるから、彼はそれを理解することができない。

使徒行伝2:38 イエス・キリストの名によって、バプテスマをうけなさい。そうすれば、あながたは聖霊の賜物をうけるであろう。