最近まで東京赤坂にあったキャバレ−「ラテンクォ−タ−」は、昭和史の雄弁な証言者である。
ラテンクォ−タ−のステ−ジには世界的スタ−や国内大物スタ−のほとんどがたったが、その華やかなイメ−ジとは裏腹に、昭和史を象徴するような事件のステ−ジをも提供したのである。
最も知られた事件は1963年12月におきた力道山刺殺事件であり、1982年におきたニュ−ラテンクォ−タ−と同じ敷地内にあったホテルニュ−ジャパンの火災であった。

旧ラテンクォ−タ−は、ロッキ−ド事件で知られたあの児玉誉士夫と、アメリカの諜報機関にいた人物とが組んで創設したものである
フィクサ−として名前を知られた児玉誉士夫は戦争中、中国で日本海軍航空本部の物資調達にあたる児玉機関を上海に創設した。
児玉機関は、中国で流通していた古銭を溶かして電気銅に再製しアルミにつかうボ−キサイト、絶縁体に使う雲母、タングステン、ニッケルなどを航空本部に供給するなどした。児玉が中国で築いた莫大な資金はその後、自民党の創設資金に当てられ、自民党に対して隠然たる影響力を持つことになった。
鳩山一郎が児玉の資金提供にあたって「条件はないのか」と聞かれ、児玉は「何もない、ただ天皇制を死守してくれ」と答え、鳩山を感動させたという。
旧ラテンクォ−タ−はもともと、アメリカ駐留軍の慰安や社交の場として計画された国策クラブであったが、諜報員や不良外人の跋扈する場ともなっていた。
そして「もはや戦後ではない」といわれた1956年にという年に、旧ラテンクォ−タ−は火災の為に焼失するのである。
児玉と共同経営である外国人との関係が決裂し、児玉が放火したという噂もあり、その外国人はその直後に様々な過去の罪を暴かれ逮捕されてマニラに永久追放された。
要するにその外国人は、まざまざと児玉の力を思い知らされたわけだ。
ちなみに旧ラテンクオ−タ−は、226事件の反乱軍将校が立てこもった料亭「幸楽」の跡地といういわくつきの場所に建てられたものであった。
考えてみるに、国会にも近い東京の一等地にこうした風俗営業の店が作られること自体、児玉機関の力の大きさを物語るのである。
ところで児玉機関の副機関長に福岡出身の吉田彦太郎という人物がいて、児玉機関の実働部隊はほとんど吉田のイキがかかったもので、福岡出身者が多くいた
この副機関長吉田の従弟に山本平八郎という人物がいて、博多で第一号の「キャバレ−ナンバ−ワン」を出すなど、合わせて11店舗をもつキャバレ−王として成功していた。
山本平八郎の「キャバレ−ナンバ−ワン」の出店に際して、力を貸したのが地元福岡出身の初代参議院副議長の松本治一郎で、松本氏が関係していた東公園近くの劇場跡に出店するのである
そして旧ラテンクウォ−タ−の焼失後、吉田の紹介で山本平八郎が社長になったのが「ニュ−ラテンクオ−タ−」だったのである。そしてその経営は山本の息子である山本信太郎に引き継がれていく。
山本信太郎は博多出身で福岡大学商学部で学び、空手部に所属していてた。その間、父親の経営する博多の「キャバレ−上海」でアルバイトなども経験していた。
その山本にとっては、順風満帆に店の経営が安定し始めた頃におきた「力道山刺殺事件」はさすがに度肝をぬく事件となったが、この事件を乗り越えて腹が据わり、仕事を続けていく自信のようなものが芽生えたという。

1957年の12月14日、ニッポン放送のDJ糸居五郎は、ニュ−ラテンクォ−タ−開店のメッセ−ジを次のように伝えた。

メキシコのトリオ・ロス・パンチョスがニュ−・ラテン・クォ−タ−の開店に際して海を渡ってくるのをはじめ、芦田やすしを中心に新編成したグレン・ミラ−スタイルの16名の専属バンド”メロ−ノ−ツ”、海老原敬一郎クインテットなど、連日最高のショ−をくりひろげます。
貴方に心にオアシスのようなうるおいと、清らかなむ-どをお送りする日本で初めての本格的ナイトクラブ、ニュ−ラテンクォ−タ−


ちなみにトリオ・ロス・パンチョスの前座をつとめたのが、坂本スミ子とアイ・ジョ−ジだった。
司会はEHエリック(岡田真澄の兄)などがつとめ、エリックは後のビ−トルズ来日公演の際の司会も勤めることになる。
日本一のナイトクラブをめざすニュ−ラテンクォ−タ−にとって、ホステスの採用は最優先問題で、実際に客層の社会的地位の高さに対応できる女性、すなわち容姿、性格、教養すべてに高いものが要求され、さらに外国人にも対応できるようにきちんとした英語が話せる必要があったのだ。
そしてそうした条件にある程度かなう女性達約80名を集め、それがたちまち評判になり、店の最大のセ−ルスポイントになった。
山本の義母である山本浅子が、そうしたホステスの教育にあたった。浅子はすべて一流好みで、服装、マナ−、言葉使いまで細かく指導し、客へのプレゼントなどもすべて銀座の一流品を揃えた。
ニュ−・ラテン・クォ−タ−のナイトクラブ黄金期のステ−ジにたった超大物外国人は次の通り。

1961年:ア−ル・グラント、ナット・キング・コ−ル
1963年:プラタ−ズ、ルイ・ア−ムストロング、パティ・ペイジ、サミ−デ−ビスJr
1964年:パット・ブ−ン、ベニ−・グッドマン

その他多数であるが、山本にとって印象に残ったのは、まばゆいばかりの光の中に浮かび上がった白いドレス姿のパティ・ペイジが歌う「テンシ−・ワルツ」に仕事を忘れ夢見心地であったという。
1973年の開店15周年記念では、ト−ム・ジョ−ンズ・ショ−を行った。二時間のステ−ジの出演料は日本円にして3400万円で、ナイト・クラブの常識を打ち破るものであった。
さらに開店20周年にはダイア・ナロス、25周年にはサミ−デ−ビスJrを招いた
もちろん国内の政治家、芸能界、スポ−ツ界、皇族、そのスジの人達、が数多くニュ−・ラテン・クォ−タ−に集い、山本氏は多くの知己を得て、多彩な交友をもつことができた。
しかし山本氏が、この人がいたからこそ人生は2倍楽しかったと思えたのが、俳優の勝新太郎であったという。
勝新太郎は、人を楽しませるのが大好きな人で麻薬所持で捕まっても、
「なんでパンツの中に入っていたのかわからない。これからはこういう事件を起こさないように、パンツははかない。」という迷言を放った。
山本氏と高野山を訪れた時に、「兄弟、耳を澄ませ!兄弟、聞こえるだろ!何百、いや何千もの年月の音が、俺には南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と聴こえる!」などと突然さけび、真面目なのか演技なのか分からないが、とにかく皆がひきこまれてしまうという。
山本氏によれば、勝新こそ麻薬なのだそうです。

ところで同じ敷地内にあったホテル・ニュ−・ジャパンの火災でニュ−ラテンクォ−タ−客も遠のき、ついに1989年(平成1年)に、閉店となる。
ホテル・ニュ−・ジャパンは、藤山愛一郎が建てた一流ホテルだったが、横井英樹が買い取ってからはすっかり三流ホテルに成り下がってしまった。
その地下に店を構えていた山本氏は、地代をめぐって横井氏と長い戦いを繰り広げたという。
博多出身の山本信太郎氏が東京ナイトに華を咲かせるために、かなりの泥土との格闘も余儀なくされた、ということでしょう
そして、ラテンクォ−タ−を舞台に繰り広げられた夜の昭和史は、黙して語らず墓場にまでもって行かなければならないことも、さぞや多かったことでしょう。