昔、あるコ−ヒ−のCMで、「違いの分かる男」とかいうフレ−ズが有名になったことがあった。高校生の時など同じようなCMのフレ−ズの「クリ−プを入れないコ−ヒ−なんて○○みたい」の○○に言葉をいれて遊んでいたのを思い出す。
最近の私の気持ちを表現すれば、さしずめ「クリ−プを入れないコ−ヒ−なんて、城島のいないソフトバンクみたい」ということになりましょうか。はやく戻って来い、ジョ−!。
当時、友人が作って一番ウケたのは、「クリ−プをいれないコ−ヒ−なんて、マリ−ムをいれないコ−ヒ−みたい」というのでした。
何が面白いかって、このフレ−ズが何ひとつクリ−プの宣伝になっていないという、肩透かし感です。
ところで、日本人はいまひとつヨ−ロッパがわからない、と思う。日欧の「違いの分かる男(または女)」になりたいならば、欧米の「個人」という観念を理解することなのだと、違いがあまりよくわからない私は思っているのです。
そしてヨ−ロッパの「個人」ということを理解するするためには、数学に「対偶の証明」というものがあるように、個人と対置される「パブリック」とは何かを理解することにより、「個人」がよく見えてくるようにも思うのです。

さて「個人」の自覚というのは、やさしくいえば「違い」の自覚ではないのか、それは個性の違いなんかじゃなくて、根底としての自他の生存原理の違いみたいなものの自覚である。
根本的に違う人々が、普通に生きていると衝突して大変なので、個人をどこかで抑制するみたいな意識を絶えず持つ、あるいは時に他者の為に動く、それがパブリック精神なのだ、と思う。
パブリック精神は、異なる人々が集まって生活する場から生まれてくるものだから、ヨ−ロッパ中世の都市の市民から生まれ、それ以外にも同じ主君の為に契約の上に仕える騎士達の間にも生まれれてきたのだ、と思う。
要するに欧米の公共心とは人々のヨコの関係から生まれたものだ。だが個人を抑えたり犠牲を強いたりするタテの力もある。
権力関係の中で、お国のために死ねとか、藩ために血を流せとか、会社に命を捧げよなどである。
こういう意識は、「個人の自覚」→「パブリック」とは正反対で、「個人の埋没」→「自己犠牲」に他ならない。そして、こういう自己犠牲はいかに自発的に見えようと「公共心」(パブリック精神)とよぶのは、本質的に間違っている。
阿部謹也という学者が、パブリックに近いものとして「世間」があると指摘している、確かに、人間の行動を抑え整える力のあるこの「世間」は、パブリックに近いかもしれない。しかし私の感覚としては、個の違いの自覚から生まれた「パブリック」とは異なり、むしろ「世間」は、「個の埋没」を促すチカラのように思えるのです。
さて欧米では個人の自覚とは「根本的な違い」の自覚であるからこそ、その「違い」が先鋭化し衝突しないように常に意識的に調整しているのが「パブリック」なのではないか、ということです。
では反対に「個人」の自覚を阻む「個の埋没」とは、どいういう意味か。
ヨ−ロッパは数学で言えば個人とは「独立変数」なのだが、日本の個人はどうしても「サムシング」の「従属変数」にみえる。そして、その「サムシング」をさぐることが、日本人の行動を理解するカギにもなると思う。
それはなかなか難しい問題ではあるが、昔は公儀たる「幕府」や「藩」であったり、現代では劇作家の山崎正和氏が「柔らかい個人主義」の中で指摘する、社会と個人の間に介在する「小集団」(派閥など)ということになろうか。
日本人はいつもこうした小集団に個を埋没させて生きる傾向があり、「個人」の自覚は生まれず、まして個人のヨコの関係としての「パブリック」意識が育つはずもない。

私は、大学の終わりごろになって、ようやく自由や平等の先進地であるはずのイギリスやフランスが「階級社会」であることを知り、かなりの意外感をもった。イギリスあたりのパブは、パブリックのパブといっても労働者階級と中産階級のそれが、隣り合って存在し、同じビ−ルの値段が中産階級の方が少し高めになっている。
イギリス人は、生まれて間もなく人は能力・財産・家格などの「違い」を自覚し、親と同じ道をあるくべく自分達の将来を限定さえしている。そして上層階級・中産階級・労働者階級がそれぞれが異なる文化圏をもっている。 社会的流動性も大きくはなく、社会はそれなりに落ち着いている。
もっともイギリスの労働者階級のストライキの数の多さは有名であるが、市民は「雨を耐え忍ぶ感覚」でそれは仕方がないことと受け止めている。
他方で、労働者は一つの会社での仕事なんか一生は続かないと思っているし、クビになれば別の仕事を探せばよく、その機会は日本などと比べてはるかに大きい。イギリス人はあくまでも「個人の幸福」が中心で会社の為になんか生きていないので、クビになっも悲壮感がない。

ところで日本の社会の教育は「同じである」ことを常に意識させるようにしつつ、しかも競争では抜きん出る、つまり「同じではない」ことを要求する。スタ−トで「同じ」であるからして「負け」は必然的に努力不足という結果になる。「同じはずなのに」落伍していくと、「どうしてできないの」と周りばかりではなく、自分でも自分を責めさいなむ。
実は子供達は現実として「違い」を肌身に感じているのだが、その感覚を充分に言葉に言い出せないまま事態は進行し、イラダチもつのる。
人は生まれながらにしてかなり違うということを知ることは残酷なことかもしれない。しかし人は「同じ」もので、やればできる、ということをことさらに強調し続けることは、結果的にそれ以上の負荷を子供達にかけているような気がする。
私の息子が通った小学校のあるクラスでは、ドッジボ−ルの時間に上手な子供ばかりがボ−ルをとるのでヘタな子にもボ−ルがわたるようにと、一旦ボ−ルをヘタな子供に渡して投げさせたそうだ。そうした子供のボ−ルは力なく、また相手に逃げる余裕を与えるために、何度戦っても試合では負けてしまい結果としてヘタな子も含む皆に不満が残ってしまった。

ところで、ヨ−ロッパ精神を形成したキリスト教的見地を確認すると、

@人は、神の被造物としては同じ
A人は、世における能力(タラント)としては違う
B人は、世における役割・使命は違う
C人は、罪人(神の審判)としては同じ

つまり人間は、神の創造という点では平等(共通)であるが、この世では能力も違い、社会の中で果たす役割も違う、そして貧者も富者も死(審判)を前にしては、またもや平等なのである。
イギリスでは、エリ−ト階層の子供は全寮制のパブリックスク−ルからケンブリッジやオックスフォ−ドにすすむ。
パブリックスク−ルだから庶民の学校と思ったら大間違いで、パブリックの意味は「全国から生徒を集める」という意味でのパブリック、まぎれもなきエリ−ト校なのです。
そして労働者は、仕事を失わない限り自分達の職業や仕事に価値と満足を見出し、その役割の中に安住し落ち着いている。
世界に先駆けて産業革命の洗礼をうけて、熟練労働者が団結して経営者に対抗した労働者は、それなりの誇りを胸に抱いているようだ。
それらを以上のようなキリスト教的世界観と合わせて見ると、階級を打ち倒そうとしたマルクシズムも丸く沈むほど、自分達の階級の「文化圏」を踏み越えてまで上の階級の「文化圏」にまで立ちのぼろうとする誘引は働かない。
つまりはキリスト教的世界観の中で、この世の貧富や階級の格差を、絶対化しない、つまり相対化しているのではないかと思うのです。(そういう意味でキリスト教は階級格差などと結構折り合うのです)
日本では、少し乱暴な言い方をすれば、試験でその階層(階級ではない)が振り分けられる。
だから受験に対して必死になるわけであるが、「ゆとり教育」などによって学校より、塾や予備校に勉強の比重が大きくなってくると、さらに貧富による学歴格差が生じ固定化する傾向にある。
日本社会の大学進学志向という相当な「単線社会」では、途中下車せざるを得なかった者たちの帰趨が社会の有様の一つの目安だと思う。
専門学校進学や就職その他に進路変更した人々が、社会に対してどういう関わり方をしていくかも、一つは、社会の健康度をはかる尺度のように思える。
「途中下車組」が本線とは外れようとも、支線に価値を見出し、本線とされる道では見出せなかったかもしれない美しい景色や優しき人々などを通じて、ともに社会の一員としての役割を果たして行くことは、むしろ本線以外の路線の広がりという点で望ましくもあるのだ。
しかし私が見るかぎり、途中下車に至る過程で、全般的にモラ−ル(士気)が極端に落ち込みつつあり、社会との関わり方の「希薄さ」が増しているようにみえる。
そしてこれも、「格差社会」とよばれる昨今の現状のもう一つの断面なのだろうか。

人々が本線でしか生きにくく、一度職場をクビになったら生きられない、そして「世間」などというものに、あやふやな「個人」が尻込みさせられ、病的に振りまわされている
それが日本という社会の現況、と見る。