海老名弾正と熊本バンド


1995年に施行された製造物責任法(PL法)は、最近良くも悪しくもひとつの時代の風潮をつくり出しているような気がする。法の内容からして良いものであり、それほどのものとも思わなかったのだが、この法は人の行動や心理のアヤにつけこみ、ジワ〜じわ〜と「密告社会」をつくりあげている、そんな気がするのだ。

ところで企業がモノをつくってそれを使った人が被害をうけた場合、それまでは被害者を守る盾として民法709条というのがあった。
民法709条は、誰かに損害を及ぼしたなら過失(不注意)故意に(わざと)にやった場合に、はじめて罪に問われるというものである。つまり、「悪いと知らないでやったことには罪がない」ということである。
ある製品を使用して損害をうけた被害者は、裁判で相手の「過失」か「故意」によるという「落ち度」を証明しなければならないのだ。
例えばテレビ燃え出す事故が起こったら、被害者は、製造者(企業)の「落ち度」を見つけ事故との因果関係などを証明しないといけないのだが、企業は情報をクロ−ズするし、使用者の予測もできないようなハイテクノロジ−の「落ち度」なんてそう簡単に証明できそうもない。
例えば液晶の層は髪の毛の20分の1で、チリやホコリがいれば致命傷となるため、工場内の「クリ−ン度」は甲子園球場にスギ花粉が数個レベルに保たれるという。そんな世界でもし「過失」があったとしても誰もワカリッコない。
そこで企業の社会的責任が問われる中で消費者の権利を守る観点からも、企業側にはそそういつまでも甘い土壌は許さじ、と製造物責任法(PL法)が登場したわけであるが、それにによって企業の立場は一変した。
これからはとにかく製品に「欠陥」があれば責任がとわれるのである。もっとわかりやすくいうと、悪いと知らずに作った、つまり「落ち度」がないものであっても事故(欠陥)があれば、一応企業側に「落ち度」ありと推定するのである。
例えば、あるゲ−ム機を使って複数の子供達の原因不明の頭痛や吐き気などをひきおこしたならば、製造過程での「落ち度」まで立証できなくとも製造者の責任が問える、ということである。ただそのゲ−ムが原因で子供達が頭痛や吐き気を引き起こしているという事実の証明は必要である。
ゲ−ム機会社は、そうした訴えに対して、頭痛や吐き気の原因は、例えばゲ−ム機そのものではなくゲ−ムソフトにあるということを立証するなどして反論しなければならない、ということなのだ。
その分、企業は「事故」(=欠陥)が起きないように今まで以上の努力が要求されることになるが、消費者(使用者)の側からみればそれはけして悪い事ではない。一つのヘタな比喩をあげると、
生徒が赤点をとったのは、先生の指導不足であると親が訴えたとする。民法709条的世界観では訴えた親が、自分の子がどれだけ真面目に努力したか、先生がいかに手を抜いたかを証明するのだが、PL法的世界観では、赤点(欠点)がでた時点で先生(教育サ−ビスの製造側)に非があるという推定をたて、先生側が自分がいかに熱心に指導したかを反証する立場になるのだ。つまりは「推定有罪」ということ
先生側は、そうなる前に熱心にして創意を発揮して生徒が赤点をとらないように指導をすることだろうから、これは社会にとっていい結果を生む可能性はおおきい。

問題は別のところにある。人間の社会では、努力するしないに関わらずよい結果を生みだせなかった不満分子が必ずいて、それを自分の責任ではなく他者に転化しようとする傾向があるのだ。
他者に転化するといってもそれまでは(証明する必要があるので)、子供の努力と先生の「落ち度」の因果関係などを考えざるをえないが、とにかくうちの息子の「成績不振」は、先生の指導に原因がある、ともってくるわけだ。そして先生の側でそうじゃないですよ、と立証しなければならない立場にある。
これPL法の発想に似ていると思います
製造物にせよサ−ビスにせよ、それを受け取る側が思う様な満足が得られないならば、その製品に「欠陥アリ」として簡単に相手(製造者)を訴えられ、それをつくり出している側には重い責任(立証責任など)を課せられる、それがPL法的世界なのだ。
民法709条的世界観では、問題(損害)が起きた場合に、まずは自分の使い方なり生活なりをも疑ってみたが、PL法的世界観では、損害(不満足)→「即」製品の欠陥→製造者の責任という考え方を生んでしまったようだ。
PL法では製造物というモノの世界でだけが対象になるが、風潮としては教育・医療・福祉などのサ−ビスにもあてはまり、そうした製品やサ−ビスの「欠陥」を訴える手段がしばしば匿名という「密告」や「投書」の形で行われるから、始末に負えない部分がある。

では何をもって「欠陥」とするかは製造物責任法では、「製品の設計や構造の欠陥」ばかりではなく「指示・警告(広告)上の欠陥」も問われる。
そうしたPL法の精神を反映してか、最近ニュ−スになった「駅前留学のNOVA」や「自費出版の新風社」の倒産に見るように、広告や宣伝の内容と実際が異なっているとの世間の非難を浴び、倒産にいたるケ−スもある。
私は昔「広告はウソをつくものだ」と思っていた。小学生時代に自宅近くに奥博多温泉が発見され百人風呂などが那珂川近くにできたのだが、そこに「和田アキ子ショ−」など書いてあって、近隣に言いふらしたら、「和田あき子」の真下に見えないくらい小さな文字で「そっくりさん」と書いてあって、オモロ−イと笑ったことがあった。
そして和田アキ子の文字が「笑って〜許して 小さなことと」と踊っているようにもみえた。
不動産の物件で「駅から十分」を「駅からじゅうぶん」とよぶなどと弁解されたり、占い師に手相を見てもらいはずれたら「人口衛星が飛んでるせいです」などと弁解されたら、笑わせてくれた代わりに許してやろうという鷹揚な気持ちが皆にあったのだ。もちろん常にそれがいいというわけではない。
しかし、PL法のせいで最近は広告や取扱書などに至るまで極めて細かい気配りが必要になってきているのである。
また賞味期限を偽った「赤福」や、「不二家」や「雪印」や「吉兆」などに対する見方にもそうした意識が背景にあり、こうしたことが表面化することは消費者にとってプラスになったにせよ、私が気にするのは、一体誰がこうした「使いまわし」などの事実を告げたのだろうか、ということなのだ。おそらく匿名の電話でも新聞社にかかったのだろうか。
密告社会というのはそれまでもあったことだし、それをPL法と結びつけるのは短絡過ぎるというかもしれないが、一つは人々が製品や広告に「欠陥」に敏感になったこと、そしてその「欠陥」をつけば、従来と違いいとも簡単に会社を窮地におとしいれることができるということ、そして社会全体に「匿名性」が増していることなどがあいまって、PL法は結果として「密告社会」の醸成に一役かってしまったといえないだろうか。
そして「密告社会」とは、物言うべき人達が押し黙ってしまう社会でもあるのだ。PL法はいいことばかりではないということで、PL法の影響は甚大でそれを予測できなかった政治家達のPL法の製造責任や如何。