黒沢明の映画「生きる」で主人公の死後、知り合いが集まってきて、主人公について語るシ−ンが20分ほど続く。
おそらくは、単調な役所勤めに埋もれ、誰の話題にもならなかったに違いない男の生が語られていく。 ガンを宣告された時に初めて「生きる」ことを決意した男の生が、死後になってようやく語られはじめるのだ。
つまり、人々は主人公の死の間際の行動について語り、はじめてこの男が抱えていた真実に近づこうとしたわけだ。
しかし「死人に口なし」で、死んでしまえば生者によっていかように語られようと、反論権(アクセズ権)なし。
そして、もしもほとんど粉飾なくしては語られない生というものがあり、それに対して反論権もない、というのはなんとも悲しい
そのような生に対しては、いかなる意味でもシンパサイザ−でなくとも、すこしばかりは粉飾の粉を振り落としてあげたくもなる。 私が、そういう感覚を抱いた人物が、226事件の背後にあって「糸をひいた」とされた北一輝という人物である。 北一輝とは本当に銃殺刑に価する人物だったのか

北は、新潟県佐渡で醸造業を営む家に生まれ、眼病をやみ中学を中途退学し、東京にでてくる。著述によってその名を上げんと図書館に通いながら自費出版したものは、一部の人々の目に留まることになった。
中国で辛亥革命がおこるや自らも上海にわたり、その革命の進展を目の当たりにして帰国して日本のアジア外交政策を提言する書物を書き北の名前は国家社会主義者として知られ、さらに日本で中国留学生により五・四運動が起こるや再び上海にわたって1919年に国家改造の方向についてまとめた本が、「国家改造案原理大綱」であった。
この本こそが、226事件の青年将校のバイブルにまでなった本で、そのこと自体本人の予想を超えたもので、ましてや226事件の主謀者として軍法会議にかけられ、処刑されることにもなる運命の本となるとはまたくの想定外であったに違いない。
ところで早稲田出の満川亀太郎という男が第一次大戦後の危機を予測して、その危機の対策を講ずべきと「老壮会」を結成していた。満川の老壮会の活動の最大の収穫は、大川周明を見出すことになる。
また満川は、「大日本」としう雑誌の主筆をしていたのだが、この雑誌の仕事を通じて北一輝と知り合ったのである。
つまり、戦中の民間右翼の中でも最も知られた北一輝と大川周明は、この満川亀太郎という人物を結節点として出会うのである。 そして大川と北のそれぞれの運命がこの接点を通して大きく動きだしていく。
さて大川周明は東京大学哲学科出身で、南満州鉄道調査部につとめたことから、参謀本部のドイツ語を翻訳をしたのが陸軍との関わりのきっかけであった。
老荘会の仕事に成果が上がらずに満川と大川は、左翼運動は学生や青年の間で人気が高まっているに右翼はイマイチ、その理由として左翼はマルクス理論をベ−スとして革命とその後のビジョンが明確で青年にアピ−ルするが、右翼には、理論もなく観念的で、天皇を崇拝してどうなるのか、ビジョンが何一つみえてこない、という結論に至った。
そういう議論の中で、満川に閃いたのが北一輝の著作で、満川は当時発禁になっていた北の書物を早稲田の図書館で読んだことを思い出したのだ。そして大川周明の方から、当時上海にいた北一輝に会いに行くのである。
北はその頃上海の病院の二階で「国家改造案原理大綱」の原稿を書いていたが、その原稿を見た大川は、これぞ我々が欲していた改革案だと絶賛し、北もそれに感激して応えた。
このように大川周明と北一輝の出会いは、劇的なものであり、満川は、国家改造を推進しようと北を招いて、大川を相談相手として、「老荘会」のあとをうけて民間右翼団体「猶存社」を発足させた。

しかし北と大川は、二人はまもなく袂を別つことになる。それはあまりにも違う二人のバックグランドに起因するかもしれない。
大川は先述のように東大で哲学を学ぶ参謀本部の翻訳の仕事から、上級将校との関わりが深く、陸軍大学や士官学校での講義や講話で絶えず引っ張りだこで高給取りである。他方北は、中学中退で、定職もなくはいってくるお金はあまり素性のよくないお金で、付き合う将校は満川を通じて知り合った中下級将校である。
北からすれば大川は羨望の対象であったに違いない。
猶存社は資金の奪い合いもあり、また安田生命争議介入事件で、大川は争議団側、北は会社側に分かれた反目で、1923年2月についに解散した。
大川は、しばらくして「行地社」という右翼団体を結成した。実はこの行地社に参加していたのが西田税(みつぐ)で、西田は北派にたって行地社を脱退した。北はこの事件で大川を失ったが、西田税という貴重な朋友を得る
西田は陸軍士官学校を卒業し病気で予備役となっていたが、北は西田をパイプとして、結果的に青年将校に影響を与えたことになる。
北は「国家改造案原理大綱」の版権を西田に譲り、次第に西田の背後にあって法華経の信奉者としてカリスマ化し、西田が北の情報提供者、組織者、実行責任者として政治の表舞台で動いてくる。
いつぞやNHKで226事件の特集をやっていたが、226事件の決起将校に電話でよびかける西田の声が、地の底から響くように聞こえたのは、録音状態の悪さもあったのだろうか。

北一輝の226事件の銃殺刑といい、大川周明のGHQによる起訴(東京裁判での)といい、たかだか民間右翼(失礼!)が、それほどの重罪を負される、腑に落ちなさと、不可解さ、あれは一体何なんだ?
きっと226事件の最高責任者を軍側からではなく民間側から出し、あげくにその責任を民間人に転嫁し、これを不逞の輩として裁き、事件自体を葬り去ろうとした意図が感じられる。
(その意味では従軍慰安婦問題に類似していませんか。)
226事件に北一輝が関わった形跡はほとんどないのだが、軍側が北に吹きつけた粉飾の粉はその形跡をつくり、それを落としてしまえば、むしろ殉教者的な北一輝の実像が見えてくる。
その意味では右翼、左翼の違いはあるが、大逆事件の幸徳秋水にも似ている。
また、大川周明のほうであるが、本当にA級戦犯に価することをしたのか、不可解です。
東京裁判ではGHQによりA級戦犯として連合軍により起訴されたが、裁判中に発狂し叫びながら東条英機のハゲ頭を書類でパッチンとたたき裁判場から連れ出されたシ−ンはちゃんとビデオの映像でみることができる。(ビデオ「東京裁判」上下巻)
大川は、その後罪を問われずに存命し、晩年はコ−ランなどを翻訳して天寿をまっとうした。
大川の一時的発狂は真実であったのか演技であったのか、真相は分からずじまいだが、東京裁判でも国がGHQの背後で民間右翼にその責を転嫁しようとし、大川は大川であの緊迫の場面でチョッピリ笑えるお芝居をうって返したのだとしたら、大川周明こそは、「生きる」力大賞・ユ−モア賞にでも匹敵する人物のように思うのですが。