作詞家の故郷


人間は一生のうちどれだけ多くの人間と深く係わり合えるものか。
人の関わりはかそけきもので一体誰をどれくらい知っているというのか。
誰かと深く関わることは相手の人生の一部をも引き受けることでもあり、利害感情を中心に据えてみれば何を好んでそこまでふみこむのか、という気にもなるだろう。
大手出版社における地位に安住しマンネリを感じ始めた一人の男が、それまでの自分と決別するかのようにとびこんだ尾崎豊というミュ−ジシャンとの関わりは、商売上のヒトスジナワデハイカヌを通り越し、人間としてヌキサシナラヌものになっていった。

見城徹は最近軒並みヒット作品を出版している幻冬社の編集者兼社長である。
編集者というのはある出版ビジョンをもって作家にアプロ−チし、いわば本の産婆役を果たすのだという。
見城はかつて「太陽の季節」を書いた石原慎太郎にこそ「老い」を書いて欲しいと、それを石原に強く勧めた。そして「老いてこそ人生」と題した本が誕生した。
私はその話を聞いて、編集者とは出版作品の可能性について当の作家に先駆けて認知して、それを見える形として実現させる仕事なのだと思った。
そのためには作家の才能や旨好について充分理解していなければならないし、人々が何を欲しているか、つまり市場の動向にも敏感でなければならない。
見城はある対談のなかで、自分は何かを生み出すことのできる「ホンモノ」にはなれないが一流の「ニセモノ」をめざす、作家が生み出すものがすばらしいものであるならばその作家がどんなイヤナ奴であってもとことん付き合うと言っていたのを覚えている。
そこで編集者と作家との間で心の格闘も生じるのであるが、編集者がここまでして身もだえしなければならいのかと教えてくれたのが見城徹と尾崎豊との「二人三脚」であった。

見城が角川の雑誌「野生時代」の編集者であった頃の話である。 新宿の雑踏でたまたま聞こえてきた尾崎の歌「シェリー」のせつなさに顫動した。 まずは見城自身、学生時代にはいわばいじめられっこで「道化」できりぬけてきたという体験をもっていた。その見城の心にが尾崎の曲の底知れない孤独や切なさ響いてきたのである。
以後、尾崎をなんとか活字にしたいと思い、尾崎の事務所に連絡をとるが何度も断られた。その間、通勤時でも職場でも家でも人目もかえりみずに、尾崎の曲を聴き続けた。巌もつらぬ意思で数度にわたるアプロ−チの末、ようやく尾崎と会うアポイントをとることができた。
見城は、尾崎は若いのでうまい肉が食べたかろうと自腹で六本木の高級な焼肉屋で出会うことにした。尾崎ははじめ言葉数が少なく、見城は彼の心をつかむ言葉を発さなければ何一つ仕事ができないと必死に言葉を捜した。そのうちに尾崎は次第に饒舌になっていっき心を開いていくのがわかった。尾崎は帰りがけに先に仕事のオファ−があった出版社を飛ばして見城と仕事をすることを約束してくれた。
そして2人が尾崎20歳の誕生日に出した本「誰かのクラクション」は、尾崎の感性にあふれた本となり、30万部の大ヒット作となった。見城にとっても「読む本」から「感じる本」へ従来の本のイメ−ジをこわす記念碑的出版となった。

その後、尾崎はアメリカへと渡り約2年ほど音信不通となったが、その間尾崎は若き「カリスマ」としてのイメ−ジが定着していった。
そこへ覚醒剤取締法違反で逮捕されたというニュースが飛び込んだ。見城は尾崎のその後を気にはしていたがコンタクトをとることもなく音信不通の状態が続いていた。 或る時、見城がスポーツクラブに行くと太った男が「見城さん」と呼びかけてきた。それは見城と尾崎との運命的な再会でもあったのだが、尾崎は荒れ果て白髪もめだちかつての面影をすっかり失っていたという。はじめは尾崎であることさえ分からないほどだった。そして尾崎は見城に、自分はすべてを失ったが、どうしても復活したい、またステ−ジに立ちアルバムも出したい、と言った。
実はその時見城は、「月刊カドカワ」の編集長として地位も上がり、面倒な企画や、難しい作家と関わることもなくなった安穏とした自分に嫌気がさしていたのである。
尾崎と話すうちに見城は「尾崎復活」に編集者としての自分の復活をも賭けてみようと考えた。そしてスポ−ツ選手の専属トレーナーのようになったかのように見城は尾崎をサポートしていった。
まず尾崎の体の復活えはかるためにトレーニング・メニューを書いた。不動産屋をまわり、金を集め、人を集め、尾崎を社長にした個人事務所まで設立した。これらは雑誌の編集長の範疇を越えおり、もし会社にバレたらクビになるような行為であった。
見城は、かすみつつあった尾崎の総力特集を「月刊カドカワ」のなかでやった。尾崎が常宿にしていたヒルトンホテルで毎日のように尾崎と会いインタビュ−を行い詩作などをさせた。この頃の見城と尾崎はほとんど共同生活みたいな日々であったという。
しかし音楽を作りだすという復活のプロセスが尾崎に不安定な精神状態を強いることにもなった。ちょっとした動作で相手が信じられなくなったり、ちょっとしたセリフで相手につかみかかろうとしたり、それが警察をまきこむような事件になってしまうこともおきていった。
尾崎はあまりにも音楽業界の渦に巻き込まれていき気が休まる日がなくなっていった。尾崎は金の成る木であった。麻薬を渡すことによって彼をコントロールしようとする人間が出てきたり、ステージに立たせるために嘘をついたり、いろんな策を労して、レコード会社を移籍させたりした。約束が守られなかったりするうちに、次第に尾崎は音楽業界は自分を利用し搾取すると思いはじめ極度な疑心暗鬼の状態に陥ったのである。
毎日、スタジオの中で暴れたり、バックミュージシャンと大喧嘩を自動販売機に殴りかかって拳を血だらけにした。郵便を出すアルバイトをさえ切手代を誤魔化していると疑うようになっていった。

しかし再起のアルバムがオリコン1位と判ったときに尾崎と見城は二人で抱き合って泣いた。
以後、40数本という復活ライブ・ツアーが始まるが尾崎は、ますます身勝手でわがままな要求を連発するようになった。見城に対して自分だけを愛してくれという甘えが野放図に膨らんでいった。見城がコンサ−トを見てはやく帰ろうものならば、もう君とは仕事ができないと言い、見城の愛情が自分一人に向かない限りは、次の連載は書かないとも言い出した。
見城にしてみても尾崎との繋がりをそうやすやすと切るわけにもいかなかった。そこで仕方なくつきあってしまう。そしてコンサート後の打ち上げで、店にあったギターを叩き割ったり、イスを投げたり、尾崎が破滅に向かって走っているのがわかった。
見城は尾崎と関わった人間はどかか自分を狂わせて行くと感じ、地獄への道連れもこれまでと尾崎と決別した。
尾崎が死んだというニュ−スを聞いて、見城も含め周囲の人々はどこかホットした気持ちがしたという。 尾崎の死後もアルバムは売れつづけているが、尾崎の詞や曲に救いがあるわけではない。
出口のなさこそ尾崎の歌であり、尾崎の生であった。
尾崎の死後、見城は幻冬社を設立した。幻冬社のホ−ムペ−ジには見城の「闘争宣言」には次のような言葉があった。
「大手出版社というブランドに守られて、ひりつくような痛みとははるか遠い所でいつも安全な本作りをしている自分の姿を思い浮かべる度に、吐き気をもよおしていたことは事実でした。
優れたれた作品は、内臓と内臓をこすり合わせるような、表現者との深いコラボレーションからしか生まれない