作詞家の故郷


落人(おちうど)、といえば平家を思い出す。平家の落人伝説は西日本各地にあり全国的にもよく知られている。いくさに敗れた落人は戦場を去り渓流を下り岩陰に身をひそめ、さらに夜陰に乗じて渓谷を駆け上り、ようやく人家の影をみつけひそやかにそこに身をよせる。そこに愛してくれる人でもいれば住み着くことができる、などと想像した。
落人つまりとは敗残者であり、実際は「落ち武者狩り」なども行われていて逃避行そのものが危険性に満ちたものであった。
福岡県久留米市には平家にまつわる「河童伝説」まで残っている。落人が民間のフォ−クロアとしてしかも「異形」の存在として生きていることそれ自体、興味深い話ではある。
さらに北九州門司の「耳なし芳一の話」、あるいは熊本県の「五木の子守歌」などは、いずれも平家の落人譚に関わるものである。
そこで私が想像することのひとつは、そうした落人達が流れついた土地で新たな家族をもうけ新たな人生を歩んだかもしれない、ということである。多くは傷をおいそのまま幣死したであろうし、終生、人目をさけるように生きたものも多くあるだろう。しかし空白の一時をすごしたあと、「新しい人」として人生を歩みだしたものもいるのではないか、ということである。
空白の一時とは心と体の傷を癒す一時であり、自分の過去と訣別し、新たな自分を形成する誕生のひと時であったはずだ。
そして私が興味を抱くのは、ただ単に落人としてとどまることを良しとせず、そうした「新しい人」として生きた、または生きようとした落人達のことである。

東京経済大学・色川大吉という学者が、明治の天才的文学者・北村透谷が、15歳から19歳にいたる「空白」の期間を探ろうと、秩父三多摩地方で透谷が関わった困民党の足跡を追った。
明治期、政府のデフレ政策で貧窮に養蚕は打撃をうけ、貧困に悩んだ秩父の農民達が、秩父自由党と組んで困民党を村ごとに組織して、大きな暴動をおこした。郡役所を占拠して借金をした高利貸しなどを襲撃したのが秩父事件で、参加者は1万人以上に広がり、四千人以上が処罰をうけている。
実は、透谷は小田原出身であるが早稲田大学の政治科に学び当時、自由民権運動が最も盛んであった秩父山中にはいって活動していたのである。
色川氏は、秩父山中の家を訪ねる中、資料を求めて多くの土蔵の調査を行った。この土蔵をあけることは何百にも及んだが、実は大変な仕事なのである。だいたい御宅の土蔵あけさせてください、といって「はい、ど−ぞ−」などという家などあるはずもない。
土蔵を開けるとは、その一家(一族)のプライバシ−を開けるものであり、何度も何度も足を運び足を運び、手紙を書き、有力者の口添えをしてもらって、おみやげを持って、いろいろ趣旨説明をして、その上でようやくあけてもらえるのである。
土蔵の中には矢でも鉄砲でもピストルだってあり、中には離縁状なんかもでてくるのである。
そこで私は、解剖学者の養老孟司氏の話を思い出した。病理を研究する際に、死体の解剖を行う際にその許可を家族にお願いしていくことも並大抵のことではない。
土蔵をあけることは、死体解剖を依頼するのと同じぐらい、またはそれ以上に大変なことなのであった。
そういう秩父山中の百以上の土蔵をあけていくプロセスで、実は色川氏は当初の目的であった北村透谷の資料にほとんど出会うことができなかったらしいのだが、北村の周辺で活動した秩父困民党に関わった多彩な群像と出会うのである。

そういう色川氏の土蔵調査による「民衆史」の発見は感動的でさえある。色川氏が発見したものの中には、北村の友人である石坂公歴や五日市憲法の草案をつくた千葉卓三郎などがいた。
石坂は、困民党が弾圧されたあとサンフランシスコにわたり最後は太平洋戦争中に日本人強制収容所にいれられ失明のうえ落命している。千葉は戊辰戦争の敗者・仙台藩の出身の落人で、東京でギリシア正教でニコライ(神田のニコライ堂建設者)により洗礼をうけ、現在の東京・五日市に流れてきて、ここにいたって西洋の啓蒙書を多く所有する深沢権八なる豪農と出会い、五日市憲法という最先端の憲法草案を生み出すのだ。
ところで色川氏が発掘したもののなかには、石坂・千葉よりもさらに波乱の人生を歩んだ人物がいた。
秩父困民党の乙大隊長の飯塚森蔵と会計係の井上伝蔵で、東京鎮台から派遣された警察部隊と激戦を交えている間に抜け出し、行方不明になってしまう。
飯森は欠席裁判で重罪、井上は死刑の判決をうける。二人は実にその後35年間潜行して、井上は北海道の北見で名乗りをあげ、飯森はアイヌの人々に匿われながら釧路あたりでなくなっている。
井上は、口の中に綿を含んで顔を変え、覆面をして山から山へと奥羽山脈を伝わって北海道に渡り、苫小牧から札幌の方に逃げたといわれている。
井上伝蔵は北海道で伊藤房次郎という偽名を使って、新しい妻をむかえ4人の子供をもうけ、それを立派にそだてあげた。磊落である反面温厚、教養もあり人の面倒もよくみる、ということで一点の暗さも感じさせない人物、という評判であった。
井上の俳句をみて色川氏は、「どこか空の一部を突き抜けたような精神を持った人、なにか過去をのりこえて明朗な境地に到達した人でないと歌えない歌である」といっている。
自分が逃亡者であり、死刑囚でありながら、そういうことができるのでは、井上伝蔵の中には大きな心の変革が起こったからに違いない。
落人が落人で終わらず、「新生」をいきた人の典型を井上伝蔵にみることができる。

しかし最後に瀕死の床で、自分は秩父の井上伝蔵だと正体を明かすのであるが、自分がやったことは天下一新、新たな世を作るという気持ちでやったが、殺人・強盗・放火による破廉恥罪で処断されたことが無念であったことをもらしている。

現代に「落人」から「新生」の道をたどった人がいるかと問われれば、戦争のない平和な日本で「落人」を考えることはできない。が、落人を、企業戦士からの離脱と、そこからの「新生」という観点でみれば、そういう人々はたくさんいる。
そして私は「ありがとうは祈りの言葉」という本によってそういう一人の女性を知った。
柴田久美子さんは、日本マクドナルド、最前線の企業戦士として戦ったのである。しかし彼女は、マクドナルドを辞め、隠岐諸島の南端に位置する知夫里島に「なごみの里」というものを設立した。
柴田さんは大多数を占める男性社員にばかにされまいと毎日必死で働き、何万ものマニュアルを読みあさり、いつのまにか店の売り上げを伸ばすことしかかんがえられなくなっていた。自分を見下すような男性社員をいつしか見返してやりたい。そんな気持ちをもっているものに、他人の心を思いやる心のゆとりなどあるはずもない。
そして柴田さんは過酷なライバル競争を勝ちぬき、念願だったアメリカ行き切符を手に入れ、シカゴにある親会社で研修をうけ、さらなる飛躍をとげていった。その時、はたから見ても、人もうらやむようなチャンスを手中に収めていたのかもしれない。 しかし柴田さんの心はけして満たされることはなく、豊かな暮らしを手にいれればいれるほど、空しさばかりがこみあげてきた。心はすりきれ人間らしさをすっかり見失っていたという。もがき苦しむうちに死をこころみる。
マクドナルド退社後、東京と福岡でレストランを経営するが失敗し、夫の事故の入院代さえ払うことができない不安の中、「愛こそが生きる意味」という声が聞こえ、先のことを何も考えずににレストランをたたんだ。
そのとき近所に住む特別老人施設の女性からうちで働いてみては、と声をかけられたことが、柴田さんと老人介護との出会いとなったが、機械に囲まれて延命措置のうえ、病院で家族でもない医者や看護婦に看取られながら死んでいくでいく老人達の無残な死を目の当たりにする。
そして、マザ−・テレサの「死の家」で、愛につつまれて死んでいく人々のビデオをみて釘づけになる。
柴田さんは、高齢者(柴田さんは、幸齢者とよぶ)は家族や愛するものに見取られて自然死をむかえることこそ大事なことである、と思った。
全国でほとんど例のない看取りの家「なごみの里」の最大のコンセプトは、マザーテレサの言葉「人生の99%が不幸であったとしても、最期の1%が幸せだとしたら、その人生は幸せなものに変わる」である。

かつての女性企業戦士の落ち着き先は、日本海の波頭に洗われる後醍醐天皇の配流先として有名な隠岐島である。
出雲に生まれた柴田久美子という現代の落人にとって、流罪や落人の島として知られる隠岐島が「新生」の舞台となったのである。