作詞家の故郷


「ナポリを見ずして死すべからず」、「ハムレットを読まずして死すべからず」、「日光を見ずしてけっこうというなかれ」、と色々あります。
私がつくったのは、「岡倉天心を知らずして日本文化を語るなかれ」である。とはいってもこの言葉は私自身に向けた言葉なのです。
岡倉という人写真で見るかぎり、うさんくさく不調和、親しくなりたくないというよりも近寄りたくない存在、つまりなんかイヤというわけで、当然、彼を「知ろう」という努力を何一つしたこともない。
「イヤ」の第一理由は、「濃い相貌に唐突な名前、天心」、
第二に「驚異的な英語力の持ち主でありながら和服姿」、
第三に「アジアは一つなど壮士風・大言壮語を吹いたこと」、
第四に「自分を引き立ててくれた上司の妻との不倫という近代不倫史を飾りながらも日本美術界に君臨」、以上である。
しかし人間というのは多面的な存在であるから、できるだけ固定観念は払拭し正しく知る努力をしなければならない。
何やら本を読んで岡倉の実像に近づくうち、私の固定観念は大幅に修正せざるを得なくなった。
大体、私は岡倉を画家とばかり思い込んでいたし、彼は日本の美術界に君臨なんかしていない。
君臨どころか晩年は落魄と逃亡の過程であった。あまりにも知らなすぎたのだ、ゴメンナサイ。
以下は、ほんの少しばかりの「岡倉天心像の私的点検の過程」である。

「濃い相貌に唐突な名前、天心」
本名は岡倉覚三である。七歳で生母に死別し、間もなく父の再婚によって里子に出されている。岡倉は彫りの深い顔に髭面ではあったが、その相貌の裏側には寂しがりの幼児のような一面を抱えていた。
「原人の顔をした羊」、といったところでしょうか、再度ゴメンナサイ。
天心は今の東京大学卒業後、文部省美術掛となるが、役人にしては小ざかしさがなく、おおらかな岡倉を人々は慕っていた、といってよい。常識はずれで、奇抜な服装をしたりして、時おり子供っぽさを見せるところなどをみると、後の「天心」という名も、時流に流されることを嫌った岡倉の性格をよく表している。
最終的に岡倉は、国家であれ社会であれ他人であれ、あらゆる人為的拘束から離脱し無為自然の境地に遊ぶことを願ったのではないだろうか。
(そういう無意識性が結局、晩年、茨城県の人里はなれた五浦海岸に導いたのかもしれない。)

「驚異的な英語力の持ち主でありながら和服姿」
岡倉天心の主要な著作はすべて英語で書かれ、はじめから外国で読まれることを期待している。 岡倉は福井藩士で貿易商の子として横浜に生まれた。それがため幼い頃より英語学校に学んだが、母が亡くなり寺に預けられそこで漢籍を学んでいる。ここに英語と漢籍の素養が岡倉に吹き込まれ、或る意味アンビバレンツな岡倉の不思議な人間像が生まれた。
今の東京大学を卒業後に文部官僚として、東京帝国大学で講義をしていたフェノロサの通訳をしながら、諸寺の調査旅行に随伴するうちに日本美術の伝統にいつのまにか精通してしまった。そればかりではなく法隆寺救世観音像などの開帳に立ち会うなどして日本の美にめざめていく。
ボストンでは郷に入りても郷に従おうとせずに和服で通して「オレ流」躍如、長男には英語に自信があるから和服で通すと豪語していた。
28歳にして東京美術学校の校長になった岡倉はカリキュラムから制服まで自ら考案した。 岡倉が教授として向かえたのは、日本画の絵師や仏像を彫る仏師たちで幕府や大名が凋落し、後ろ盾を失い不遇な時代をすごしていた人々であった。 ところで彼が考案した美術学校の制服は奇抜すぎてあまり学生には好評ではなかったが、現在は裁判官の制服として採用されている。岡倉式「オレ」流は今も生きているのです。

「アジアはひとつなど壮士風・大言壮語を吹いた」
岡倉は文部官僚として出世階段を上りながらも、その心は官僚のそれではなくむしろ時代や政府に絶えず抗していく傾向をもっていたようである。それが時代の先取りとなった側面も多くあった。
岡倉が文化財調査の過程で見いだしたのは、廃仏毀釈運動の中で荒廃しつくした文化財の廃墟であったいってよい。
当時、文化財調査などは富国強兵の時代にあってはマイナ−な位置づけしかなく、文化財保護などという発想も当時はけして強くはなかった。しかし岡倉は文化財の保護を訴え、それが戦後の文化財保護法へと繋がっていく。
岡倉が唱えた「アジアは一つ」というスロ-ガンは、アジアの盟主になろうとする日本の軍部などに利用されたために、岡倉自身のイメ−ジまで歪めてしまったことは否めない。(私の中の歪んだ岡倉像もそれにあたる)
岡倉は日本美術のル−ツをインドや中国を旅して探り、その結果、芸術観として「アジアは一つ」と語ったに過ぎないのである。これを壮士風・大言壮語などと訝っていた私こそイケナイ!
多くの画家を育てながら、廃仏毀釈の中に日本美術の保護を訴え、西欧化一辺倒のなかでアジアを求めた岡倉の反骨心は、なかなかスバラシイ。
また、岡倉が日本美術院の移動展示会を福岡で開いた際に、観世音寺に感嘆し聖福寺の大鑑禅師の画像を絶賛し、そして九州にも国立級の美術館・博物館の必要性を説いた。太宰府の九州国立博物館は、それからおよそ100年後に岡倉の提唱が実現した形となり、彼の構想どおりアジアとの文化交流の拠点となっている。

「上司の妻と不倫スキャンダルにもかかわらず日本美術界の重鎮」
1884年から1887年つまり岡倉32歳から35歳くらいまでが絶頂の時、文部官僚としての岡倉の抱負が充分に達成され前途洋々にも見えた。
当時日本は「脱亜入欧」を合言葉に、列強の仲間入りをめざし国をあげて西洋化に取り組んでいた。美術界において西洋画を軽んじる岡倉に対する風当たりも強く怪文書が出回ったりもした。
そして1898年、政府の方針が西欧路線に転換し、岡倉の上司・九鬼龍一を更迭した。文部官僚・東京美術学校校長としての岡倉の立場も危うくなった。追い討ちをかけるようにスキャンダルがもちあがった。岡倉と上司・九鬼の妻との不倫である。岡倉はバッシングの嵐の中、36歳にして官界から去らざるをえなかったのである。
そして東京谷中に新に日本美術院を創設した。その際に、東京芸大の横山大観・橋本雅邦以下教授達も辞表をだし日本美術院に加わった。
(なんだか西郷の下野から私学校創設を思わせる)。
今でこそ大家とよばれる画家をだした日本美術院であるが、彼らの画は、当時はほとんど売れず学校経営も困難であった。1898年、日本美術院主宰の第一回展覧会が開かれたが、横山の「屈原」という画は、美校を追われた師、天心の姿を重ね合わせたと評判になった。 屈原は中国戦国時代、楚の国の詩人で政治家である。讒言によって国を追われ、愛する国が敵の手に落ちたのを悲しみ、湖に身を投げて命を絶つ。
しかし日本美術学校もこれからという1902年、岡倉は41歳の時、一年近くインドを旅するのである。 そういう彼の態度は大人とはいえないし、周りをがっかりさせたにちがいない。
岡倉はインドから帰国後、逃げるようにして東京を去り茨城の五浦へ居を移した。ここには横山大観・菱田春草、下村観山、木村武山らも家屋と研究所を移しとも活動を行った。岡倉はこのころからアメリカのボストンに滞在することが多く、最晩年は中国、インド、ヨ−ロッパへと海外滞在を繰り返し、最後は50歳で妙高山の別荘で死をむかえている。
 岡倉の最後の9年間は結局、ボストンと日本を半年づつ往来する亡命にも近い生活でもあり「落魄の道程」ではなかったかと見られるが、窮境は人をして天を知らしめるということもあろう。アメリカのボストンにはモ−スやフェノロサによって多くの美術品が送られていた。岡倉はボストンをもうひとつの拠点とし、日本美術の収集家であるガ−ドナ−夫人との交流を暖め、4回目のボストン旅行ではハ−バ−ド大学よりマスタ−=オブ=ア−ツの名誉学位をおくられている。
国内では排斥され逃亡者の観さえある岡倉であったが、外国には理解者は結構いたのである。

「権力」から「落魄」へとスロ−プを下った岡倉の人生ではあったが、常に曙光を見出しつつ、けして「絶望」へと導かれることはなかったように思う。むしろ夢を失うたびに「天の心」を知りより人間らしくなっていった面もあるのではないか。心は不遇により洗われ、耕さかれ、心の滋味を得ることのできる出会いだって待っていた。
最近、岡倉の晩年、インドの女性と交わした「愛の書簡」が見つかった。インドの女性詩人・バルジ−夫人であるが、彼女は弁護士と結婚し一児をもうけたが夫と子供を亡くして母親の介護をしていた。
岡倉は、インドの詩人タゴ−ルの親戚でもあるこの女性と夕食の席で出会っている。この女性は岡倉のニュヨ−クで出版された「茶の本」へ次のような賛辞を送っている。
「乾いたしわしわの茶の葉よ、いったい誰が夢見ただろう、こんな乾いた葉の中に、かくも緑なす春の潮の歌と詩と美が保たれていたなどと。日本の子よ、あなたは麗しくも描いたのだ、あなたの茶の水彩の中に、永遠の生の微笑と涙、光と影を」⇒⇒ここまで賞賛されると男は弱い。
アジアの美を最後まで求めた落魄の岡倉が、50歳で出会ったこの女性の内面に救いを求めたとしても不思議はない。
顔はいかめしいが、母親を幼くして失った岡倉は結構甘ったれで、ここにいたって永遠の女性(母親)と出会っている。書簡の中には、子供のように「爛漫」として自分を開放してみせる「天心」がいた。