作詞家の故郷


私はNHKの教育番組で戦没者学生の画というものをみたことがある。
特攻兵として戦地にむかう美術学校の学生が未来の自画像を描いたのだが、印象に残ったことは画の表情には顔がない、とうことであった。目も口も鼻も描かれてはいない、ということである。
死が約束されているものにとって未来の自分の顔を画きとることはできなかったのか、と想像する。
まったく別の話だけど、もし私が今の自分の顔を描けといわれたら本当に描けるのか、こころもとない。
自分の顔がムッサイこともあるけれども、だいたい自分の表情が最もよく焦点を結ぶところの心のありかは一体どこにあるのだろうかと迷ってしまう。

 福岡県糸島郡志摩町のアトリエで、制作活動を行う現代日本を代表する画家がいる。野見山暁治氏は、1920年 福岡県穂波町生まれである。1943年 東京芸術学校(現東京芸大)油画科卒業し1952年渡仏し1964年に年帰国する。
 野見山暁治氏は戦争で亡くなった画友への鎮魂をこめて「祈りの画集」をつくった。
この画集に触発された人がいた。作家水上勉の実の子・窪島誠一郎氏である。生活苦の中で結核の病に苦しんでいた水上氏が生まれたばかりの窪島氏を人に預け、戦争のドサクサの中でその子は死んだと思われていた。しかし窪島氏は育ててくれた父母が実の親ではないと直感し、窪島氏自身によって実の父・水上氏を探し当てたという体験をもつ。
そして窪島氏自身が自分というものを意識しはじめたころからいつのまにか養父母をも知らず知らず苦しめてきたことに気がつくのである。
そして家族を引き裂き、養父母を苦しめた戦争のことを思った。
さらに窪島氏は戦没者画学生の画を集めた「無言館」の建設を思いつく。

「私は自分の空洞が怖かったのだと思う。怖かったので自分を粉飾しごまかすことに没頭した。自分を粉飾しごまかすつくりごととは、私にとって文芸であり、演劇であり、絵を書くことだった。私はその頃から己れ自身の実体をつくりあげようと必死だったのではないかと思う。自分をたくみに絵解きしてくれる言葉や行為が欲しかったのだ。

窪島氏にとっての「無言館」とは自身の「顔のない絵」を描き撮る行為ではないのか、と思ったりした。

「私は死んでいった画学生のどの絵にも、あふれるような存命の歓びと肉親への感謝を発見して瞼がぬれたのだった。親が生きているうち、何一つ孝行せず、すべてを子の手柄のように考えてきた自分の姿をふりかえってやるせなかった。同時に、父や母の背後にあった「戦争」をも一顧だにしようとしなかった自分がなさけなかった。」

「祈りの画集」の画家・野見山氏による日本エッセイスト・クラブ賞受賞のエッセイ集「四百字のデッサン」(1978年)に義弟の田中小実昌氏が登場する。
  田中小実昌氏は毛糸の帽子をかぶり、サンダル履きというラフな格好を好み「コミさん」の愛称で親しまれてきた。すっとんきょうな表情で深夜番組「11PM」をはじめとして、テレビドラマ、映画、などでも活躍した。本業は作家で直木賞はじめ谷崎潤一郎賞をも受賞した大家なのだ。
  田中氏は1925年、東京千駄ケ谷町の生まれで、牧師だった父親が北九州市の西南女学院シオン山教会の牧師となったため4歳のとき、一家は広島の呉市に移住した。
この父の姿を描いたのが谷崎潤一郎賞の「ポロポロ」である。
 戦争中のこと、キリスト教への風当たりは強かったはず、父が祈る言葉さえ出さぬほどに信仰が窮迫したときにに繰り出す、祈りとも呟きとも知れぬ言葉、それが「ポロポロ」である。
 田中氏は1938年、福岡市内の西南学院中等部(現・西南学院高校)に入学し1年の2学期から寄宿舎生活を送った。神学部寮には、西南学院高等部の学生だった川上宗薫もいた。
 田中氏は、母親の意向で広島の実家の近くの県立呉第一中学(現・三津田高校)に転校し卒業したが、その後、ふたたび福岡に戻り旧制福岡高校に進学した。
  1944年、満19歳で徴兵検査を受け、山口県の連隊に入営した。田中氏の部隊は九州博多港から軍用船で釜山に渡り、鉄道で南満洲を抜けて南京に駐屯し各地を転戦、敗戦直前にアメーバ赤痢の疑いで湖北省咸寧にあった旅団本部の野戦病院に移送となり、そこで敗戦の報を知った。
  田中氏はこの体験を、小説「北川はぼくに」の中に書いている。それは次のような話であった。

   「僕」が初任兵として中国に駐屯していた時、北川というまじめで物静かな男がいた。北川は戦地では敵を一度も撃ったことがなかったのだが、終戦のその日、近寄る人影にたった一発だけ銃を撃ったところ、そこに日本兵の死体がころがっていたのだ。「僕」も北川も死んだ日本兵も皆初任兵だった。
北川は或る時「僕」にその出来事をうちあけたのだ。「僕」は北川に、死んだのが日本兵だと知っていやな思いをしたのか、とは聞かなかった。聞いても仕方のないことだ。
「僕」は戦争が終わったことに、どんな思い入れもいかなる感慨もおきなかった、繰り返していうが絶対に起きなかった。
それでも「僕」はいつしか、撃った初任兵も撃たれた初任兵をも、まるで「僕」自身であるかのような思い入れでこの話を物語るようになっていたのだ。


  考えてみれば、「終戦の日」に「一発の銃弾」で、「初任兵」の「仲間」を「誤って殺した」北川の体験は惨酷な体験であることには違いない。こうした出来事にさえ淡々としていられる主人公がいて、他方でこの出来事を熱っぽく語ろうとする主人公がいる。
こうした主人公が戦争を熱く語る行為には、窪島氏の「無言館」設立の行為に通じあうものがあるようにも思えるのですが、いかがでしょう。
 人が自己の「物語り」をするのも、結局、自分が無辺際の荒野を行きあてもなく飛びさまよう一匹の蝿ではない、ということを自分に納得させようとしているのかもしれませんね。(こういう言い方は、栄えあるハエに失礼かもしれない。ゴメン ハエ!)
  例えばまったく無為に無感動に青春をすごした男が、瑞々しい感覚で自分の感動青春物語を書く、というようなことはよくあることだと思います。逆に、感動的青春を過ごした人間はそんなものを書く必要がないかもネ。
1946年7月、田中氏は上海から氷川丸で神奈川県久里浜に復員した。郷里呉市に戻ると、もと帝国海軍の町が戦後はすっかり進駐軍の町になっていたという。
アメリカ軍基地の兵舎のストーブマンをしたあと、彼の応召中に父親が勝手に入学手続きをしていた東大文学部哲学科に無試験で入学した。
渋谷の軽演劇の小屋に出入りしていた田中氏は東大を中退し、米軍基地クラブのバーテン、街頭易者、テキ屋などの職を転々とし、また場末のストリップ小屋にコメディアンとして出演するほか、英米ミステリー小説の飜訳も手がけ、アメリカ人の宣教師の通訳などもした。
2000年2月27日、旅先のロサンゼルスにて客死している。
 
   ひょうひょうとしてユ−モラスな田中小実昌氏の表情にどこか「顔のない絵」の寂寥がふっとよぎるのを今も思い出す。