社会科学の世界で、「利他的人間像」やそれを基とした思想は、私の知る限り存在しない。
ベンサムの最大多数の最大幸福、アダム・スミスの経済的利己心、そして社会契約説における自然権(所有権・自由権・生存権)など、いずれも「自己保存本能」を超える人間像は存在していない。
あえていえばマルクスの共産主義的人間像は、人間の利己的部分よりも協同的部分に重きを置いている点では、かなり「性善説」に傾いてはいるものの、「利他的人間像」までは想定していないようだ。
社会科学ではその操作上、(自己保存法則の下で)人間が単純に利己的であるものと一応想定した上で思想や理論が組み立てられているのであるが、もちろん人間はそんな単純なものではない。
したがってある人々が、自己を犠牲とするとか、他者の為に命を投げ出すという行為は、どこか人間が元来がもつDNAを超えるものであり、それをあえてしようとするところに、人間が他の動物と異なるエッセンスがあるといってよいでしょう。
かつて遠藤周作や曽野綾子が著書の中で紹介したアウシュビッツでのコルベ神父などは、ホロコ−ストの用の収容所の絶望的な状況の中、自らある脱走兵の身代わりを申し出て他のユダヤ人とともに餓死刑になることになった。地下の餓死室に全裸で入れられ1滴の水さえ与えられること無く次々に死んで行ったが、最後まで生き残ったのはコルベ神父で最後は毒薬の注射を受けて亡くなった。
そのときのコルベ神父はまるで死ぬことを喜んで望むような穏やかな表情で自ら腕を差し出し、注射を受けたと、当時の担当者が証言している。
こういうコルベ神父をみると、人間が「自己を超える存在」でありうることを教えられる。

人は身を削るほどではない、ある程度の善意さえあれば、「優しくいい人」という評判を得ることはそれほど難しいことではない。ただ、犠牲をともなう、その善意故に自分が多くの不利を蒙るとなると、「自分を超える」何かがなければできることではない
そして人間は、「自己保存慾」(名誉慾や出世慾を含む)だけの生き方には満足できず、「自己を超える」何かを志向する。例えば、自分には本来ない力をえようとしたり、永遠の命をもとめたり、精神の絶対的平安を求めたりする存在なのだ。
世俗的・大衆的な次元では、アメリカン・ヒーロ−のス−パ−マンの存在も「自己」を超えんとする欲求ののあらわれの一つであろう。
ギリシア哲学でも「自己を超えた」存在へのあこがれをあらわすプラトンのエロ−スや、インド哲学で宇宙の根源と一体化しようとする思想の中に、地上の自己の保存法則を超えんとする魂の飛翔をみることができる。
そして自己を超えんとする祈りや願望は、様々な民族の宗教の儀式の中に、「死と再生」のドラマとして組み込まれていることが多く、それは旧い自己を脱ぎ捨て、新たな自己になるつまり「生まれ変わる」という形で展開される

キリスト教における「死と再生のドラマ」である洗礼にみることができる。「洗礼とは、罪に死に新しい命をうる為の新生の儀式」程度の理解ならば、それはミッション系の学校での「聖書の時間」的解答ということになろう。
しかし聖書をよく読むと、洗礼は単なる「儀式」、つまり「気持ちの問題」にすぎない単なる形式などではなく、実体のある何か、もっといえばそれを受けたものが「自己を超えうる」何かであることをしめしているのである
イエス・キリストは、カナという村で行われた婚礼に出席して、水が葡萄酒に変わる奇跡をおこなっている。その奇跡は、それを知る者が葡萄酒をもってきた弟子一人だけという意味で、あまりにも目だだないものではあったが、その奇跡の含蓄はとてつもなく深い。
水が葡萄酒に変化することは、水がイエス・キリストが十字架で流した血に変わる、つまり洗礼を予言しているのである。さらには、十字架にかかったイエスの体から血ではなく大量の水が流れ出したことも書いてある。
イエスはおめでたい席での最初の奇跡において、すでに自分の十字架を予見していたことになる。
ところで、旧約聖書という膨大な文書には何が書いてあるのか、簡単にいうと、神とユダヤ人との契約、人類の救済者たるメシアの到来の予言、そして暗喩のように「救いの型」がちりばめられている、といっていよい。
「十戒」で有名なモ−セは、当時エジプトの下で奴隷として働いていたユダヤ人の子として生まれた。
奴隷の子があまりに増え過ぎたので、エジプト王より殺せという命令が出たが、親は子のモ−セをを殺すに忍びなく川に流し、それを発見したたエジプト王家の娘が、モ−セをその川からが引き出しエジプト人の王子として育てたのである。
ところでモ−セの名前の由来は「水から引き出す」という意味で彼の大事業「出エジプト」を暗示するばかりではなく、イエスキリスト以後の「洗礼」を想起させる名前なのだ。モ−セとキリストの時代に一千年の隔たりがあるのも驚きだ。
さて、そのモ−セが奴隷であるユダヤ人を率いていよいよエジプトを出ようとすると、そのイスラエル(ユダヤ人)を去らせまいとするエジプトのファラオに神は様々な奇跡をもって、その力を表す。
そのひとつがモ−セがナイル川の水面を杖で叩いた時に、ナイルの川の色が真っ赤にそまるのである。ここでも先述ほどのキリストの血と水の関係を暗示している。

旧約聖書で「救いの型」といえば何といっても、ノアの洪水の話であろう。ノアの洪水の話は、神が地上に満ちた暴虐を怒り、洪水によって人類が滅ぼされるのであるが、その際にノアとその一族8人だけは箱舟によって救われる話である。
新約聖書のペテロ第一の手紙8章には、ノアの洪水が、洗礼という「救いの型」を示しているとはっきりと語っている。
それは「水を通過して人が救われる」ということである
また、大洪水というカタストロフィ−によって人類がリセットされ、新しい世界が始まるなどは、未来の「神の国」の到来を思わせられるものでもある。
ところで、ノアの物語の中には、あまり目立たないがもうひとつの「救いの型」が示してある
ノアには、セム・ハム・ヤペテという三人の子供がいたが、ある日ノアが酒に酔って裸で寝っころがっていたところ、3人の息子のうちで、ハムはその姿を見ておーい見てみろと嘲り、ヤペテとセムは、ノアの醜態を見ないようにして、着物をかけてあげたということが書いてある。
些細な出来事のようだが、その時の息子の態度により、セム・ハム・ヤペテの子孫達の運命が定まった、ということがわかる。
非常におおまかにいうとセムの子孫がユダヤ人やアラブ人などのアジア系、ヤペテの子孫が白人、ハムの子孫がアフリカ人となる。
そこでノアの三人の息子の子孫について聖書の預言をそのまま書くと次のようになっている。

カナン(ハムの子)はのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える。
セムの神は、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ。
神はヤペテをおおいならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。
カナンはそのしもべとなれ。


この預言当たっていますか。ヤペテがセムの天幕に住むというのは、キリスト教に支配されるヨ−ロッパを意味し、カナンはその僕となれ、というのは白人による黒人支配を思わせられますね。
ところで、酔っ払いオジサンのノアについて神は次のように評している。
「ノアはその時代の人々の中で正しく、かつまったき人であった。」
そして、神様はこのノアをその目から見て「良し」として、その家族を救おうとされたのである。
そしてノアは神に命じられたように、皆から嘲られながら馬鹿にされながら、時には狂人と思われながら、「箱舟」を完成させたと思う。その意味では「自己保存欲求」を超えた人ではあったろうが、昼間から酒に酔いつぶれるなどは人間的に弱さも感じさせる人物であり、私にとっては好感度ナンバ−ワンです。
この酔っ払った父親に遭遇したヤペテやセム行為もやはり「救いの型」をしめしている
この場面を聖書の記述のままに書くと、

彼は葡萄酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいる兄弟につげた。 セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、後ろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。

パウロは、イエスの十字架の血による洗いつまり洗礼は、人間の弱いところや罪深いところに覆いをかける、穢れなき白い衣を着せる、ということを書いている。
ノアの話は、まだまだ深いインプリケ−ションがありそうですが、ペテロ第一の手紙3章にかいてあるノアの洪水の前に死んで獄につながれた不従順な霊の話なども興味深いところです。

従来、旧約の物語は、神話や作り話として、考古学的反証を意図した調査もおこなわれてきたが、その「物語」の周辺環境や事件を何一つ否定できる考古学的資料が出てこず、いずれも聖書の物語を補強するところに落ち着くというのがひとつのパタ−ンでした
地質学上の調査で、人類が古代において大洪水にあったことを示す大断層が残っていること、そして聖書で箱舟がたどり着いた標高5165mのアララト山麓で箱舟をかたどった跡が発見されていること(もちろん本当に箱舟跡かという確証はありません)、などからみても「ノアの洪水」を単なるシンボリックな物語と見るのは早計すぎるでしょう。