海老名弾正と熊本バンド


福岡と大分の県境・下筌ダム建設反対に敢然と立ち向かい公共事業のあり方を問うたのは室原知幸氏である。 反対運動は結局、補償金をうけた住民が反対運動から遠のいたために、しだいに力と力の全面対決というよりも一人の頑固親父と公権力の戦いという様相を示したいえなくもない。
結局、ダム反対運動も「対反ムダ」と読むと室原が自嘲気味に語る結果となっていったが、裁判費用については山林地主である室原家の山林売却による資金が使われる、つまり森を守るために森を売るという皮肉な結果を招いてしまった。
室原の裁判には当時の公共事業のあらゆる問題が指摘され、それ以後の公共事業のありかた「法にかない、理にかない、情にかない」はひとつの原則になったといってよい。
テレビでかつての反対住民ののろしや「蜂の巣城」を見るかぎり、力でもって力に対決した戦いかに見えたが、実は早稲田大出の学士・室原は、「法には法」にという立場を貫き、法律書を勉強して公権力と対決したのである。
住民の蓆旗かかげての反対運動とは裏腹に、室原は蜂の巣城ではなくいわば奥の院にとどまり法律書と格闘していた、というのは私が後に知ったこの闘争の意外な側面であった。
室原氏の戦いは法律という「言葉」の土俵の上に身を置いたということだ。室原氏にしてみれば、いかに公権力と力で対決しても早晩粉砕されることは明白であったからであろう。

この下筌の蜂の巣城からそう遠くはない福岡県・八女福島に江戸時代より続く反骨の家系があった。
島津蔵久である。豊臣秀吉の島津征伐の時、当主・島津義久が降伏した後も秀吉に抗戦し、矢が秀吉の輿に当たる事件を引き起こしたために罪せられたという。
明治時代この家系から一人の小説家が生まれた広津柳朗である。広津家はこの蔵久から何代か後に、久留米の有馬家に仕えた儒者の家柄であったという。柳朗は家族制度の重圧や本能の発動から、遂には犯罪を犯すにいたるという日清戦争前後の暗い世相をいきる人々を描いた。そして彼の息子に当たるのが、広津和郎でいくつかの小説を書いたが、終生の仕事となったのが「松川裁判」批判であった。
私が高校時代にこの松川事件に少しばかりの興味をもったのは、現在の小郡市出身の私の叔父が松川裁判の主任弁護士の一人であったことによる。
松川裁判の勝利は、わが家系の小さな「伝説」だったのだ。

1949年、鉄道に関する不可解な事件が下山事件・三鷹事件・松川事件と連続して起こった。松川事件は東北本線松川駅で列車が転覆し、機関士3名が殉死したというものであるが、枕木を止める犬釘がぬかれており、これが誰かが故意に何らかの目的をもって工作したものであることは明らかであった。
こうした三事件に共通したことは二つあり、一つは事件の捜査が始まらないうちから、政府側から事件が共産党又は左翼による陰謀によるものだという談話が発表されたことである。 その背景には鉄道における定員法による大量馘首問題があった。国民の大部分は政府談話を信じたばかりではなく、広津氏でさえこれを 信じ、共産党も困ったことをするものだ、と思ったという。
実際に、国鉄の労組は出鼻をくじかれ世論を味方にすることもできずに、馘首はかなりすみやかに行われていったという。第二の共通点として、こうした事件の背後にアメリカ占領軍の影がちらついていることであった。列車転覆の工作に使われたと思われるパ-ナには外国人と思われる英語文字が刻んであった。
ところで私はこの事件にとおりいっぺんのことしか知るものではなく、これ以上詳細に立ち入ろうとは思わない。私がここで語りたいことは、この松川事件の不当性と戦った一人の小説家、広津和郎氏の戦いについてである。

広津氏は文学者であり、刑事事件の専門家ではない。3つの事件を共産党の仕業と思い込んでいた広津氏が、この事件に関わることを始めたのは、第一審で死刑を含む極刑を言い渡された被告達が、獄窓から彼らの無実を世に訴えるために綴った血のにじむような文章を集めて出版した「真実は壁を透して」を読んでからのことであった。
この文章には真実しか語られていないと直感したのである。
(アメリカ映画「十二人の怒れる男」を思いだします。被告になった青年の透明さに無罪を信じた人がいた。)
通常、裁判の虚偽性を暴くためには新しい証拠を見つけたり、極秘資料を探したりするのが普通なのだが、広津氏は公開された裁判記録のみでこの裁判の虚偽性を追及していった。法律は堅苦しい言葉で書いてあり私などは拒否反応しかおきないのであるが、言葉であることは変わりない。
広津氏の最大の武器は、文学者としての「言葉」に対する嗅覚のみであった。
広津氏は、取調べ「調書」の言葉の一つ一つの「アヤ」を点検していったのである。そうした細かい言葉の点検よって、最初は、組合に属しない立場の弱いものを掴まえて、それに嘘の自白を強制して調書を作り、その調書から次第に目的の組合員の方に関連をつけ、架空の組合員による共同謀議にまでもっていこうというデッチ上げのプロセスが次第に浮き彫りになっていったのである。
つまり「最初に結論ありきの裁判」で、第一審、第二審でそして死刑、無期その他の重刑が、二十人の被告に対して判決がいい渡されている。(友人の宇野浩二によると広津氏は、二審の判決を知り、部屋の片隅で人知れず泣いていたという。)
広津氏はいう。「長い作家生活の間で、私は書かずにいられなくて筆をとったということはほとんどなかったが、松川裁判批判はどうやら書かずにいられなくて書いているといえる。私たちの目の前で、ああゆう納得のゆかぬ裁判で多くの青年達が死刑や無期にされているということを黙視できないからである。」
国費によって裁判費用がまかなえる検察側に対して、裁判を戦うのに一文の費用も出せない被告達に対するカンパは当初、広津氏自身の言論活動にかかっている部分もあったのである。

「社会正義」という言葉は、最近ではあまり全面に打ち出す風潮にはないのかよくわからないが、松川事件被告の全員無罪という最高裁判決は、「正義が最後には勝利する」という一陣の涼風が駆け抜けていくような爽快さを今日にも伝えてくれている。
広津氏は小説家の宇野浩二とは二人三脚で戦い、文学者の志賀直哉からの支援もあった。多くの弁護士が無報酬で戦った。そしてその支援の輪が一般に大きく広がっていったことも、こうした爽快さの一側面である。
しかし、松川事件で被告達は全員無罪となったのであるが、けして真犯人が捕まったわけではない。最近なくなった映画監督で社会派といわれる熊井啓がこうした事件を題材にした映画作品を残しているが、こういう事件を未解決つまり謎のままに残してきたことが、戦後の日本の混迷に繋がってきたという監督の言葉には同感できる。
私はこういう事件が起こった時代そのものを生きたわけではないが、こういう事件を多少でも本で読むにつけ、生ぬるい泥水に足をおいて寝ているような厭な気持ちにさせられる。
というのも日本の政治が占領政策終結以後もこうした「闇」の部分で深く繋がっていたということになれば、今日の政治もこうした事件を背後で操ってきた暗部との繋がりを完全に断ち切れているのか、そういう疑念と気味の悪さはけして抹消することができないからである。

現在、松川事件事故現場には「松川の塔」が立っている。碑文の一部を紹介すると、

「この官憲の理不尽な暴圧に対して、俄然人民は怒りを勃発し、階層を超え、真実と正義のために結束し、全国津々浦々に至るまで、松川被告を救えという救援活動に立ち上がったのである。
この人民結束の規模の大きさは、日本ばかりでなく世界の歴史に未曾有のことであった。救援は海外からも寄せられた。」