海老名弾正と熊本バンド


KYは、「空気よめない」の略だそうだ。こういうのって携帯文化の影響かと思っていたが、よく考えると自分達も高校時代にやっていた。
同姓の生徒と区別するため、英語の教師が私の名を「直(ちょく)」とよんだせいで、皆から「ちょく」とよばれるようになった。
授業中にメモがまわってきて「直天」とデカク書いてある。
これは私以外には絶対解釈不能な略語で、「ちょく 天神にいこうぜ〜」の意味なのでした。
ある日、黒板に「日直の仕事」と書いてあったら、「日」の文字が消され「直の仕事」となったり、ということもあったっケ。
したがって略語にはいい思い出はない。我が中学生の息子のイニシャルが「K・Y」であることもあるし、略語はやめましょう。閑話休題。

最近、山本七平の「空気の研究」を読んで「K」つまり空気について考えるうち、もう一つの「K」である言霊に思い至った。
「空気の支配」と「言霊信仰」は匠の宮大工がつくった工芸品のようにドンぴしゃりとかみ合う。
 山本七平は「空気の研究」のなかで、日本人が「時々の空気に支配される」とはどういうことか、いくつかの例を挙げている。

@戦争末期に、戦艦大和の出撃を無謀とする主張する側には細かいデ−タすなわち明確な根拠があり、一方、大和出撃推進派にはその根拠は何にもなかったにも関わらず、なぜかその時の「空気」によって出撃が決まってしまった。
A原子炉導入がようやく俎上に乗ろうとしていた時期、ある専門化が「実験用原子炉と原爆とは関係ない」と強調しその安全性を訴えたにも関わらず、「原子」と名がつくものはすべて拒否するという強烈な「空気」が充満していたために、その意見は完全に葬り去られた。
B1961年四日市ぜんそくで患者が大量発生したが、その年末の国会で公害対策基本法の中の「経済の健全なる発展との調和」を図るという項目が削除された。「経済の発展」と「公害問題」とを調和させるのではなく、一方を削除して「公害問題」のみを絶対化する「空気」をかもし出した結果、いびつな環境行政をうみだす結果となった。
C日本版マスキ−法では、自動車排気ガス規制の基準をアメリカ以上にひきあげ、外車は公害車であるという「空気」をつくりだした。

日本人ならば、「とても言い出せない空気(雰囲気)だった」などという経験は誰しもある。
@〜Cの事例のようにどんなに非合理な判断であっても「その時の空気によって支配され」結論が出されるので、軽視できない悲劇を招きよせる結果となる。
BとCは政府自ら作為的に行き過ぎた「空気」をつくり出した感じです。
山本七平氏の「なぜ日本人は空気に支配されるのか」という問いへの答えとして、とてもユニ−クな指摘をしている。
絶対的な唯一神信仰を持つものにとって、この世のことはすべて人間が考えたり作り出したりするものであるからして、絶対的なものではありえず、所詮「相対的なもの」なのである。
例えばヤ−ウェの神を信じるものにとって、人間の思想たる右翼も左翼も保守も革新も、絶対的なものではあり得ず、同じライン上のものでしかないのだ。もちろん時々の情勢によって優劣はあるし、その思想の歴史的意義の評価はするのだが、けして絶対化することはないので、その時々の「空気」に支配されることはない。
一方、日本人のようにアニミズム的・多神教の世界に生きる者にとって、時々に信奉するカミガミが変化するように、絶対的なものが変わっていく、つまりその時々の空気が指すものがカミとなり、「空気に支配」されていくのである。
一旦絶対化した物事は相対化できないので、空気が生んだ「カミ」に対してマイナス要因をだして物事を正しく吟味する態度を失わせしめることになる。

それにしても、空気とは何か、どうして発生するのか、という疑問が残る。
山本七平氏によれば、通常、空気は意図的操作によって作られるのではなく、言葉のやりとりのうちに、無意識のうちに偶発的に発生し、それが自然に醸成されるという。そして英語で「空気」を表すのはけしてAirではなくAnima(霊)であると指摘している。
このAnimaはアニメ−ションの語源となっており「霊」という言葉に近い。それが言葉のやりとりのうちに発生するものならば、Animaを日本人が伝統的に信奉してきた「言霊」といいかえてもよい。
「言霊信仰」とは簡単にいうと、「言葉に出したことが本当に実現する」という信仰のことである。そして空気は「言霊」によって醸成されるということである。
一旦、空気が醸成され言霊が支配する世界が生じたならば、それは一種、神的な聖域みたいなもので、それを侵犯することは許されない。自由に物をいうことができない世界なのだ。
それが「空気に支配される」ということだ。
こうした「言霊信仰」は、古代人はともかく現代人とは無関係などと思ったら、とんでもない誤りである。
「お前がそげんこというけん、ソフトバンクが負けたろうが」、「あんたが変なこというから、雨がふって遠足が中止になったんよ」などの非論理的、不条理な言葉でもわかるとおり、日本人はいまなお強力な「言霊サポ−タ−」なのです
言霊といえば私は空也上人の像を思い浮かべる。空也の口から指先大の仏像が数体出ている不思議な像なのだが、空也の祈りのひとつひとつが仏像になっている姿は、言霊信仰をあらわしているように見えて仕方ないのだ。

私は、言霊のことを書いているうちに日本国憲法の25条の実質的意味がが問われた朝日訴訟を思いうかべた。憲法25条「すべて国民は、健康で文化的な生活を営む権利を有する」という条文に対して最高裁判決は、「プログラム規定」であると判決をくだした。
つまり25条は「国の指針」(めざすべきもの)にすぎず、いまその内容(健康で文化的な生活)が実現しないからといって厚生省の「生活保護基準」が憲法違反に当たるとまではいえない、という判決です。
もっとかみくだくと、憲法25条は今後の国の展望なり願望であるにすぎないのだから、政府は財政の制約の中で、その実現にむかって営為努力しているのだから、とやかく言うな、ということである。
憲法の実質は判例がつくるとはいえ、私はこの「プログラム」規定説を聞いた時に、すこし奇妙に思いました。
なぜなら憲法には現実に即したことばかりではなく、目標なり方針が条文になっている、ということを知ったからです。憲法って意外とフワフワしたものなんですね。
このことを、もっともっと味が変わるくらいに噛み砕くと、憲法は、「願望」なり「期待」がそのまま書いてありますよ、ということなのです。
それならば憲法前文の、日本が戦力を持たないひとつの根拠としての「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という部分は、北朝鮮の核の脅威にさらされている日本にとって、あくまでも「願望」や「期待」としてうけとっても全然かまわないということになるから、一応納得できます。
でも「願望」や「期待」を憲法の条文に書くことの本当に困った問題は、そうした条文が容易に言霊に転じ、誰も批判ができなくなる、ということなのです。
憲法改正絶対反対の裏には、こういう言葉として表現された条文をイジクル(改正)ことは、まさにその行為自体こそが、災厄たとえば戦争を引き起こす結果になる、という言霊にまつわる深層意識が働いてはいないと、果たして言いきれるでしょうか。
私は不勉強なので明言はできないが、この「諸国民の公正と信義に信頼して」の部分が憲法のいわば趣旨説明である「前文」にあることを差し引いたとしても、憲法の本来の役割とは願望や期待に基づくものではなく、もっと即現実的、実効的なものでないかぎり、現実の問題を相対化できるチカラをもつことができないのではないか、と思う。
日本国憲法のそうした曖昧さは、アニマのように、国民をいつもある種の「空気の支配」の下に投げ出しているように思う。
つまり日本国憲法というのは、法の中身(サブスタンス)としてではなく、空気(アニマ)のように現代の日本人を規定しているということです。
まわりくどいので明言すると、「日本国憲法は平和ボケを生むアニマを漂わせている」、だから「日本人を現実に引き戻すサブスタンスのある憲法に改正する」ことこそが、「真の平和につながる」ということです。
(この憲法下で自衛隊がイラクに行くことや太平洋上で米軍に石油を給油するなどという行為は、憲法の内容を空しくしまっている。)

ところで「空気」がはじけ雲散霧消してしまうことは日本社会でよくおこることである。戦争末期「一億総玉砕」の空気は、米軍の占領が始まるや一気に吹き飛んだ。
そこで私は、経済で言うところの「バブルの崩壊」を思い浮かべる。架空の経済価値が肥大化して、現実の価値とははるかに違うとは皆が感じながら土地や株を買い続ける。そして金融引き締めの実施またその噂によって一気にバブルがはじけたのである。
空気の支配も、空気の濃度が増し凝宿し、現実からどんどん乖離していき、誰もがおかしい(これがポイント)と思い始めた頃、だれかが「水を差す」発言をすることによって一気にハジケてしまうのである。
つまり「空気の支配」とは言霊のバブルなのです。
またこういう時、空気の読めない人つまりKYが、「水差し係」として、はからずもその存在に輝きを放つ可能性だってあるんだゾ。
日本の戦争で、戦争拡大を支持する「空気」が醸成する中、それを否定するような言説は、臆病者呼ばわりされるばかりではなく、その言葉を発すること自体が災厄をまねくつまり「敗戦」をもたらす、という言霊信仰の中で、誰も戦争拡大を反対できないという「空気」が醸成された。

日中戦争の泥沼も太平洋戦争の勃発も、一面、言霊(K)と空気(K)が生んだ「WKの悲劇」だったように思うのです。