作詞家の故郷


空海は806年留学先の唐から帰国して一年間、博多にいた。そのことは博多駅近くに空海が設立した東長寺があることでもわかる。東長寺の門には「密教東漸第一の寺」とあり、東長寺の名は空海が東に長く密教が伝わることを願ってつけた名前である。
唐より帰国して博多にいたその1年間は空海にとって貴重な時間であった。空海は博多(大宰府)で、もちかえった密教の法具を整理し密教を理論化、体系化していった。それは新しい世界観をうちたてるためにどうしても必要な時間であった。
そんな空海の時間が(私の中で)、ロンドンでのマルクスの時間と重なった。
マルクスはロンドンで唯物史観に基づく新しい世界観を構想しその経済理論を深化させた。その理論は確かに古びたといってよい。しかしマルクスがロンドンで暮らした気宇壮大な時間は今なお輝きを放っているように思われる。

マルクスは1848年「共産党宣言」で万国のプロレタリア団結せよと訴えた。その数日後、フランス、ついでドイツの労働者たちが保守勢力に対して反乱をおこした。フランスで2月革命がおこりその余波をうけたドイツでも3月革命がはじまった。マルクスの予言が真近に実現するやとも思われたが、結局は反革命の動きのために革命は失敗した。
マルクスはそのころ「ライン新聞」の編集を行っていたが、ドイツがロシアと同盟を結んだことを批判したという理由で国外追放となった。一度はパリにむかったが、パリでブルジョワ反動の動きがおこるとケルンに戻り「新ライン新聞」を発刊した。しかしマルクスは反政府扇動の理由で逮捕され裁判にもかけられた。裁判では巧みな答弁で釈放を勝ち取ったが、反体制的異分子を烙印をおされをうけ永久国外追放となった。フランスでも入国を拒否され、ベルギ−でも拒否された。結局、マルクスは大陸を離れざるをえなかったのである。

空海が唐に渡る以前から密教はすでに日本に断片的に伝わっていた。しかし空海は密教のほぼ全体を唐よりもち帰り、それをを一つの世界観にまで高めようとした。そのためには時間が必要であった。
実は空海、20年間の中国滞在の決まりで唐に渡ったにもかかわらず、わずか2年半あまりで帰国している、つまり国禁を犯したというという立場であり、空海の博多滞在はある意味「処分待ちの時間」でもあったのである。

マルクスは1818年ドイツのモ−ゼル川流域のトリーアに、町の有力な弁護士の家庭にうまれた。マルクスは裕福なユダヤ人として暮らしてきたが、ベルリン大学ではヘ-ゲル哲学を学び社会主義思想に目覚めた。卒業後は新聞の編集主任などをしていたが、革命の失敗後いったんはパリに赴き、さらにロンドンに移った。ところがイギリスは彼に市民権を与えなかったため、当地で痛苦にみちた後半生を無国籍者として過ごした。家族をかかえての収入は新聞の通信員の寄稿料のみであり貧困と不安定さに満ちた生活が続いた。

空海は774年讃岐の国に生まれ、12歳で「論語」などを勉強し15歳で都にのぼる。18歳で当時の国立大学に入学を許可され、将来を嘱望された。
大学の勉強に疑問をもち、周囲の反対を押し切り大学を中退した。山岳修行を続けながら仏教をきわめようとしていた時、それまでに一度も見たことのない経典である密教の根本経典「大日教」と出会う。 当時の密教は日本ではそれほど重視されておらず、空海は正統な密教を学ぶために唐にわたる他はないと考えるようになった。
31歳の時、入唐留学生として遣唐使の一員となる許可が与えられ804年遣唐使一団に混じり、一路唐の長安をめざした。同じ船団には最澄の姿もあった。
 空海は佐伯氏という中流豪族の一族ではあったが経済的にそれほど潤沢であったとも思えない。また空海は私度僧という立場でもあり特有の不安定さがつきまとっていた。

マルクスはロンドンに渡るや革命失敗の理由を労働者の団結が不十分であったことと反省した。労働者達は自分達のの利害が共通のものであることを充分に認識していなかったのだ。すでに唯物史観に立つマルクスであったが、パリ亡命以来学んだ経済学はあまりにも貧弱であったことに気がついた。
マルクスはロンドンに亡命してから約1年後の1850年9月ごろより「共産党宣言」を裏付けるための科学的理論を仕上げるために大英博物館の図書室に通いはじめたのである。
1850年代を通じてマルクスは毎日午前9時から午後7時まで住居に近い大英博物館の大きなド−ムの図書館に出かけ経済学の書を読み続けた。作ったノ−トは実に大量で、今日の大学ノ−トでいえば数百冊にのぼったという。大英博物館の図書室には日本の国会図書館の3倍もの蔵書があり、マルクスは資本論を書くために1500冊の著書を書き抜いたといわれている。

空海が学ぼうとした長安の高僧青龍寺の恵果(けいか)は、胎蔵界つまり真理(大日如来)が宇宙で運動する発現形態、と金剛界つまりその運動が真理へ帰一していく形態の両方(両部)に通じていた。しかし、それらの奥義を伝えるべき弟子に恵まれていなかった。
 恵果は一目で空海にその資格ありとみた、というよりも恵果は空海を恵果自身の師匠である三蔵の生まれ変わりとみたのである。
そして自分の持つ物すべてを空海に惜しげもなく開陳し譲った。恵果は空海に会ってからわずか3ヶ月で最高位である「亜闍梨」の位を授け、空海を密教の正統なる継承者とした。
恵果は空海に早く帰国して日本に密教の奥義を伝えることを願った。
そして空海は、師・恵果のすすめで2年あまりの滞在で帰国を決意し806年10月帰国したのである。

マルクスが家族と共にロンドンへ移住した先は長屋の3階の粗末な一室であった。ロンドン時代のマルクスの悪戦苦闘ははからずも数年間続いた。貧困や病苦、家族の不幸とも戦わなければならなかった。
家賃がたまっては借家を追われ、貧しい地区の二間に一家5人が重なり合って住んだ。子供は大きくなりかけては死に、生まれては死んだけれども、オムツを買う金も棺おけを買う金もなかったという。生まれた7人のこのうち成人したのは3人の娘のみで、貧苦の生活が子供達の命を奪った。そして1881年のマルクスには「トリ−ア第一の美女」といわらた4歳年上の妻の死が追い討ちをかけていく。
この時期、マルクスが米塩の資のために書いたジャ−ナルは夥しい量にのぼるが、マルクスは紡績工場で成功したエンゲルスなどの援助をうけつつ、その期間をなんとか凌いでいった。

空海は、いつの日か許されて都に上る時が来るにせよ、都には彼がそこから逃れ唐に渡る決意をした旧態依然たる仏教がそこにあるのだ。
空海は「反動勢力」と戦うためにも密教の理論化・体系化が必要であった。空海が実際に過ごした太宰府には、得度受戒の儀式を行う戒壇院がある観世音寺があった。さらに観世音寺には、ちょうどマルクスにとっての大英博物館のように多くの仏典がそろっていた。空海は、この観世音寺に派遣されてきた東大寺や唐招提寺の学僧とも交わることができたのである。
観世音寺は、マルクスの大英博物館と同じく、多くの留学生がここに経典を伝え多くの蔵書にもめぐまれていた。奈良時代に吉備真備と学んだ玄ムも、この寺に留学からの帰国後過ごし、失脚後この寺に流された。玄ムの墓は、観世音寺のすぐそばにある。

マルクスの政治的活動は、1850年代は反動の時代にほとんど封じ込まれていた。しかしマルクスの心には「万国のプロレタリア、団結せよ」の言葉がまるで深い祈りのごとく生きていた。1857年のロンドンを襲った恐慌は世界に広がろうとしていた。1862年に第三回世界博覧会がロンドンで開かれ、その機会に世界中の労働者がロンドンに集まってきた。労働者の代表の一人がマルクスに「国際労働者協会」(第一インタ−ナショナル)の創立宣言の起草を依頼してきた。マルクスが書いた創立宣言文は20年前の「共産主義者同盟」に比べると革命的でなく柔らかな表現で書かれたが、これはマルクスがこの協会の地盤の広がりに満足していた表れと思われる。
そして1864年の9月28日「国際労働者協会」が正式に発足した。マルクスは、困苦の中にあって新社会実現の確かなうねりを聞いていたのだ。

空海は最澄らとは異なり一介の私渡僧にすぎない、今、勇んで都にでていったところで誰も相手にしないということをよく知っていた。空海はその間、唐より持ち帰ったものの目録を朝廷に送ってアピ-ルしていく。空海が朝廷に送った「御請来目録」に載っているリストには経典や注釈書が461巻、おびただしい数の法具や仏画、仏像などがすべて記されていた。そこには早期帰国の罪を補っても有り余るほどの、当時の文化価値からすれば「史上空前の財宝」が載っている、と空海は自負していた。
空海の博多滞在はしかるべき時を待つ「戦略的時間」であったようにも見える。

マルクスの一生のうちロンドン時代は苦痛と哀しみに満ちた不安定な時代であったが、1867年「資本論」第一巻を発刊する。マルクスは妻の死後二年後に65歳で貧窮の中なくなっている。
しかしマルクスの精神は新世界のビジョンにあふれていたことだろう。
マルクスの死後、そのヴィジョンは最大の理解者であり協力者であるエンゲルスによってひき継がれた。エンゲルスによって「資本論」第2巻・第3巻発刊され、第1巻の英語訳もなされた。エンゲルスは1893年第二インタ−大会にも出席し2年後、ロンドンで亡くなっている。

空海は、先に密教を断片的に持ち帰って日本の密教の国師と崇められる最澄に対して、自分の方が密教を体系的に受け継いでおり、「こちらが本道」という絶対的確信もあった。 そして博多に滞在していた空海に、807年の夏朝廷より勅令が来た。京ではなくまずは和泉国槙尾山寺に仮に住めと言うものであったが、とにかく空海の幽閉はとかれた。空海はとりあえず槇尾山に居を移し、現在の槙尾山施福寺でさらに2年間すごす。
博多の1年間と合わせたこの3年間が密教ビジョン構築の時間だった。さらに朝廷が空海に「京にのぼりて住め」として与えたのは高雄山寺(現在の神護寺)であった。新に天皇となった嵯峨天皇は空海の書や詩を愛していたのだ。
平安京をはさんで、東西に比叡山の最澄、高雄山の空海と平安仏教の二大リーダーが並び立った。

洋の東西、全く隔たった時代に、新しい世界観を打ち立てた空海とマルクス。没我入魂の勉強で何かを追い求めた彼らの姿に、我々は清新な気持ちにさせられる。
しかし彼らとてその世界観を、先の人々がどのように運用しその下で蠢めいたかを、詳らかに見通すことができたわけではない。
むしろ何も知らないほうがはるかに清朗な死を迎えられたようにも思われるが。