海老名弾正と熊本バンド


クロワッサン、ラグビ−ボ−ル、三カ月、色んな形があるが、それらは或る特定の関係をもった集合である。
つまりは一筆書きでかける図形でどんなに形は異なっていても、線の「関係性」という点で共通している。
例えば両端を一つに結わえた三本の紐は、動かしてみれば色んな形を成すが、両端が交わっているという関係性において共通している。見かけは変わっても、「関係性」まではくずれていない。
こういうものの見方は社会事象にも適用できないか。そんなことを考えた文化人類学者がいた。異なった社会を比較の上で、見かけ上の複雑さの下に埋められた関係性における共通項を探り出し、その社会における人間の思考が、そうした社会的関係(親族の構造など)により規定されてるという考え方を打ち出したのである。
構造主義の背景には位相空間(トポロジ−)の発想があったのである。
レヴィ・ストロ−スという人類学者が、未開社会を研究する上で、上記のような数学的な発想を取り入れて社会をとらえ「構造主義」という新たな地平を切り開いたということは、知的なコ−フンに価するように思える。
実際に、レヴィ=ストロ−スが構造主義の考え方を作りあげる過程で、フランスの数学グル−プとして有名なブルバキ派の中心人物だったアンドレ・ヴェイユが協力しているのである。
具体的にいうと、レヴィ・ストロ−スは未開社会において平行イトコの婚姻と交叉イトコの婚姻の問題について、前者がタブ−視されるのに対て後者が比較的許容度が高い問題について、女性をできるだけ近親相姦から免れた通婚(交換)の対象として残して置けるように人々が自然と思考するようになっていることを明らかにするのである。
そこで思い出すのが、韓国において同じ姓の人に対して結婚はおきないしそれどころか恋愛感情でさえおきないという事実である。韓国に行ったときに本当に恋愛感情はおきないかとガイドの方に質したが、やはりおきないのだそうです。
また関係性といえばまずは関数を思いうかべるが、数学において式の形はいろいろな形で表れても、その関係性においては共通というものが関数の一つの性格である。
4-3y=2x+5という式は、2x+3y=-1とは見かけにおいては異なっていてもまったく関係性において同じである。社会の構造がいかに豊かに枝葉を身にまとっていても幹の構造において共通ということである。
この関数の中に具体的な値を与えるという「操作」をすることによって、未開社会の例えばト−テムの意味を考えるのである。例えば、Y=サルをト−テムとして考える社会と、Y=熊をト−テムとして考える社会とでは、それぞれのXの中に共通な構造や思考パタ−ンがないのか、という設問の仕方なのである。
レヴィ・ストロ−スはそうして社会的関係に規定される人間の思考が、必ずしも未開社会における「野生の思考」に限らず、現代においても社会的関係がいかに人々の思考を規定しているか、というより普遍的な平面へと投影(拡張)していったのである。
こうした構造主義の考え方は、自由や主体性を中心において考えるサルトルなどが想定する人間像に対する挑戦でもあった。また歴史性を重んじるマルクスなどとも異なっている。
ところで構造主義は、ある特定の社会がもつ社会関係を深層として最も良く現わしているのは言語ではないか、という発想から言語学の分析へと展開していった。確かに日本語という言語じたいが日本人の思考の産物であり、その使用が日本人の思考様式をどんなに規定しているかと、考えてみればそれはよく理解できる。
たとえば白黒はっきりしない曖昧な表現が多い日本語は、そうした表現を多く使う必要のある社会的関係があり、そうした言語が人間の思考をも大きく制約しているのである。

「構造主義」誕生の経緯を見ると、欧米人は、様々なものの見方の中になんと多くの数学的な発想を取り込んでいるのか、とあらためて思う。
私は一時期、プログラム言語のJavaをコンをツメて勉強していたことがある。そしてそのプログラム構成上の発想の中に欧米流思考のエキスを感じとったことがしばしばあった。
比喩で語らせていただくと、例えばプログロムで家をつくることにする。まずは「家を作ります」よ、と宣言すると家のコンポ−ネントが呼び出される。家具なり、電気製品なり、台所なりの、通常一般的に家にありそうなオブジェクトが用意されてくる。ただしそれぞれのオブジェクトはいまだいかなる属性(プロパティ)も保有していない。
ベットのベットたる「本質」のみがそこにある。つまりこの段階で、それぞれのオブジェクトは実体のないもの、もっともいえば「霊体」(天使)のような存在なのである。
そこで色なり形なりのプロパティをひとつずつ指定していくにつれ、本質(霊体)は少しづつ姿を現わしシャバの陽を浴びる。サルトルとは逆に「本質は実存に先立つ」という世界なのである。
さらにJavaが優れているのは、ト−スタやアイロンという個々のオブジェクトを一から設計するのではなく、共通の性質である「電気製品」という本質から、その本質のみをまずは「継承」させて基底となし、プログラムを省力化するという合理的手法をとっている。
もちろん通常の家にはない日本刀などの装飾品をプログラムするためには独自の(クラス)設計が必要となり少々手間を要するが、一旦日本刀を設計しておけば、その他の和風装飾置物のプログラムについては、日本刀の装飾品としての「本質」の「継承」という形でプログラムを省力化できるという性格をもっている。
この本質の「継承」というものの考え方は、ギリシア哲学の「形相」と「資料」の考え方に繋がるものがある。

コンピュ−タ言語は究極的に、0と1で物事を表現する、イエス(1)とノ−(0)の膨大な反復により物事を表現していくという方法である。こういう2進法的処理は、機械論的にいえば1の時に電圧が強く、0の時に電流が弱まり、その電流の強弱が生み出す無数の網目のなかから高速で計算処理がおこなわれていくのである。
この0と1による数学的アルゴリズムが、ヘ−ゲルの「弁証法的発展」に近似したもを感じる。
 単純にいってYesかNoか、繰り返していけば一意的に物事が決まる、というのがアルゴリズムであろう。
コンピュ−タの世界ではこうして「文字」ばかりではなく「色」や「形」をも表現しているのである。
結局はコンピュ−タ上の表現は、ものごと一定枠で分割された属性ひとつひとに答え(Yse?NO?)を与え、物事を終局的に規定するという方法をとっているのではないか、と思う。
ただしアルゴリズムではOと1との判別は明確で白黒はっきりしているのであるが、ヘ−ゲルの弁証的発展は、アルゴリズムよりも「動的」ではある。というのは、あるYesテ−ゼと、Noテ−ゼが存在し、その矛盾を統合(アウフレ−ベン)する形で新しいテ−ゼがうまれる。さらにそれを否定するNoテ−ゼと、さらにYes、Noを統合するような形で新たなテ−ゼを生むという形で動的に発展していく。
ちなみにヘ−ゲル的世界観によれば、家族から国家さらには終局的に世界精神への実現へとむかう発展像が描かれている。
「静的」か「動的」かの違いはあるにせよ、アルゴリズムとヘ−ゲルは「正」(1)「反」(0)の反復とその繰り返しという点では表面上共通しているのである。(ちとゴ−インすぎますか)

Java言語を多少でも学んだ身だが、最新ソフト(フラッシュ)の登場によって、そうした労力も実用面では徒労に終わったような気がしなくもない。しかしプログラミング言語習得を通じて、西洋流のものの考え方の一端にでもふれたと感じ取ることができたことは、「ヒョ−タンからコマドリシマイ」みたいな意外性のあるよき体験をしたと思っています。