海老名弾正と熊本バンド


人間の幸せの要素は多様だが、最も根源的なことは自分の存在の根拠や由来が明確なことではないか。 自分の父母がはっきりしている場合でさえ、人の中には人間はどこからきてどこに行くのだろう、などと哲学的に悩む人もいる。
まして自分が誰から生まれたのかさえ知らず生きるというのは、一体どういう気持ちなのだろうか。
人間存在の由来や根拠といっても、生物学的な意味での由来ばかりではなくて、自分に流れている民族の血の騒ぎなり、意識の刷り込まれた国家の成り立ちなどをも含み、そういうものが曖昧なかたちではなくしっかりと留保されていることこそが人間の力や安心の源泉なのではないか、と思うのである。
最近、世の注目を集めた赤ちゃんポストとは、諸事情のために育てることのできない新生児を親が「匿名で養子に出す」ための容器、およびそのシステムの通称である。
ハンセン氏病の隔離病棟からはじまった熊本の慈恵病院が「こうのとりポスト」としてそれをスタ−トして以来、賛否両論が沸騰している。
「こうのとりポスト」の目的は望まれない赤ちゃんを殺害と中絶から守ることにあり、当面赤ちゃんが快適に暮らせる環境が整っている。しかしここに預けた人の名前は不明であり、子は自らの親を知ることなくしばらく施設に預けられ里親に出されることになる。
つまり「匿名性」こそが赤ちゃんポストの特徴である。
私は赤ちゃんポストの話を聞いて、30年ほども前にコインロッカ−に赤ん坊を捨てるという事件がしばらく続いたことを思い浮かべた。
コインロッカ−を開いた発見者が実際にその子を育てる可能性はほとんどない。だいいち赤ちゃんポストと違って、子の処理に困った親が、幼児を遺棄する手間まで人任せにした「殺人」に他ならないのであって、赤ちゃんが生存している可能性の方がは少ないのである。
こうした事件が作家の想像力が刺激したのか、村上龍は「コインロッカ−・ベイビ−ズ」という小説を書いた。そこには、コインロッカ−に捨てられ、施設で育てられながら生き延びて、暴力と破壊に生きる少年達の姿が描かれている。
その後におきた陰惨な少年犯罪で世間が騒ぐたびに、私は自然と「コインロッカ−・ベイビ−ズ」という小説のタイトルを思い浮かべるようになった。つまりそれほどにコインロッカ−は、暗喩にあふれた器なのだ。金属性・画一性・暗黒性・匿名性・閉鎖性などなどである。
金属性はパソコンやオ−ディオ機器に囲まれた部屋を思い起こすし、画一性は集合住宅を思い起こす、暗黒性はネット社会の闇を表し、匿名性や閉鎖性は社会との交流性の希薄さなどになぞらえられる、と思った。
破壊と暴力といえば数年前におこった世界貿易センタ−ビルをねらった9・11テロ事件があった。この実行犯はタリバンというパキスタンのイスラム教神学校で学んだ生徒たちで、親を失った孤児が多かったそうである。肉親の愛を知らずに育つのでさえ、自分と生を繋ぐ最後の絆を失うことであり、「失うものはなにもない」と過激な行動に繋がることもあるのだろうか、自己の出自をさえ知らないということはそれ以上に本源的なことなのだろう。
ある精神科の医者が、親を知らない若者のカウンセリングが難しく、どういう親であれ親を知ることによってようやく自分のことを患者が語れるようになったことを報告していた。

ところでさらに問題なのは個人の出自ばかりではなく、民族的な出自の問題もある。アメリカは、多民族がその民族的出自をめぐってシノギをけずっていきているところである。
自分がいかなる国の、いかなる文化を引き受けている人間かを自己証明できなければ、たちまち多民族社会にのみこまれ、どこに生活しているのかさえわからなくなる社会であり、アメリカで日系人がどう生きたのかという経過は様々な示唆をあたえてくれる。
日本人は二重の意味で自分達の出自を知らない民族である。
原始時代の日本人のル−ツは多様であり、北方アジア系、南方アジア系、南洋系などなど、つまり色んな民族の流れが合流した結束点が日本という国なのである。
しかし○○系というのは、どの方向から民族がやってきたことを示すのみで具体的にどんな民族が日本にやってきたかを明らかにしているわけではない。東アジアをさらに西に溯れば中央アジアさらには中近東にル−ツがあるかもしれないのである。
民族的由来の方はまあしょうがないとしても、日本における最初の統一政権たる大和朝廷の成立(天皇の成立)の経過が不明なのである。
日本の歴史はそれまで中国の歴史書によって文字として明らかにされたが、大和朝廷が結成された四世紀ごろは、ちょうど中国の争乱により中国の史書の記録を欠いたままなのである。
つまり日本人にとって、一番重要な時期の歴史が文字のデ−タとしてはポッカリぬけており、考古学的な探求も宮内省による古墳の学問的研究の規制のため、この時代の闇にいつまでも光が届いていないのである。
あまり言われてはいないが、日本人の民族的由来とか国の成立経過の曖昧さは、今日、日本人の大きな「精神的空白」を生じさせる結果とはなっていないか。
戦争中に、日本にはかつて天皇に連なる神話の下に国がまとまろうとした時代があった。その際に古事記や日本書紀などに含まれる「国創り神話」を必要としたのだが、それがもたらした高揚をシアワセというか、逆にアヤウサというかは、どう裁断しようとそれは一面的な断面にすぎないと思う。
戦後、そうした非科学的な「神話」は否定され、自由や民主主義という理念が新たな高揚をもたしたような感はある。ついでにいうと所得倍増などの経済成長が一つの理念として社会に充満していたので、そうした日本人の出自不明がもたらす空白などほとんど意識する必要もなかった。
というよりも自由や民主主義の価値を体得した新たな国民に生まれかわった錯覚さえ抱いていたのではないか、と思う。
勤勉に働き続けた日本人は、人間というものが、食う、着る、住むなどの基本的な要求が満たされたあとに、このような「不全感」に陥ろうなどとは、予想だにできなかったにちがいない。
自由や民主主義が経済成長の過程で日本社会でどのように育まれ蝕まれたのかはよくわからないけれど、ピッカピッカの新品の洋服を着ているつもりが、上手に着こなせないまま、なんだかすっかり古びて変色してしまい、今更自由や民主主義を唱えてもお題目にしか聞こえないような感じにさえなっている。
未来のビジョンまではいかなくても、これだけはしっかりやろうとおさえるべき社会の合意された理念(昔の”親に楽させてあげたい”などでよい)でもあれば未来志向に留まり、必ずしもそうした出自不明などに心をかき乱されることもなかったように思うが。
日本人は、出自不明のためか真に自分を語ることができないという民族である。少なくと積極的に自分を語ろうとはしない民族である。自分を語ろうとしない人間が他者とのコミュニュケ−ションが可能であるはずもない。

人間のアイデンティティーの問題について私は聖書のある出来事を思い出す。映画「十戒」でもよく知られるモ−セは若き日にエジプト人の王の子供として育てられるが、自分がユダヤ人であることを知るやあえてエジプト人にユダヤ人奴隷として酷使される道を選ぶのである。そこには、この世の利害や苦楽をこえた自己の本源に忠実であろうという姿が見える。
日本人は、「啓典の民」のように自分達の生の原理を外に伝えることはできず、外部から見てはかりしれないプロトコルを互いの目くばせや腹芸で確認しあっている奇妙な国民のように映っているのかもしれない。
また最近では、ネットカフェ難民なんて言葉もあるけれど、デラシネ(根無し)なのは国民で、まるごと漂流しているかのような感があるのはいいすぎでしょうか。
しばらく前に、寺の納骨堂に入る機会があったが、コインロ−カ−を思わせるボックスに骨壷が収めてあり、その前で手を合わせて拝むのである。
揺りかごから墓場までコインロッカ−なのか、そのうち日本自体が漂流する巨大なコインロッカ−のようにも見えてくる。どこからきて、どこへいくのか。