作詞家の故郷


1923年9月1日にマグニチュ−ド7.9の規模で首都圏を襲ったのが関東大震災前夜、人々はどのような生活をしていたのか。山川出版の日本史教科書でも、当時の雰囲気は充分に読み取れる。
ヨ−ロッパを主戦場とした第一次世界大戦後の大戦景気で、アメリカにむけての輸出急増むけ生糸が急増し、世界的な船舶不足で日本に空前の景気をもたらし多くの船成金が誕生した。地元福岡でも、炭鉱が活況を呈し、炭鉱成金が多く現われた。
ただし大戦景気の底は浅く、ヨ−ロッパ復興とともに、1920年前後を境にしてはやくも戦後恐慌の時代をむかえていた。
普選運動、教育の普及、大衆社会の進展のにより、いわゆる大正デモクラシ−とよばれる時代であったが、労働運動、小作争議、などが頻発していた。
現実には貧富の差は広がり、社会の改革への要求が社会の各層から噴出した時代とみることができる。ちなみに関東大震災による死者・行方不明者あわせて14万人であった。
こうした関東大震災後に、この異常な出来事を人々はどのように受け止めたか、捉え得たかは、一つの興味深いテ−マではないか、と思う。
人間と自然の根本的な信頼感の崩壊、あるいは築きあげたものの一夜にしての喪失、火に呑み込まれいく夥しい人々の群れ、こういう出来事に遭遇して人々は何を考えたのか。
当時の記録を読むと、天災への認識としては、さもありなん、という類のものが多いが、当時の世相や社会思潮を反映してエット思うものもある。

3年前の福岡での地震体験から地面が動くというのは、台風とか雷とかいうもののと根本的に違う、と思った。何が違うのかといわれれば、人間の無力を知らしめる度合いにおいて、ということだ。
地震は人間がいさかさでも抱いている自然への信頼感(甘え)の根本的な挑戦であり、その信頼を根底から打ち砕いてしまうものだ。
意外なことは、関東大震災に巻き込まれた人々の多くが、人間の存在の根本条件を揺るがせたこの災害を、それほどの異常なできごととしては受け止めてはいないということである。
多くの日本人にとって、天災は忘れる前にやってきた。つまり人間と自然の関係の破綻は、日本人の意識裡に刷り込まれており、いつかくる、いつかくる、という予感をもってこの出来事を迎えたということだ。
大方が、大地震というものが一定の周期で起こることを予想し、新聞社などはその時の記事を用意していたフシさえある。
芥川龍之介はこの頃、鎌倉を訪れ、藤、山吹、菖蒲の咲き具合から「発狂」の気味を感じ、天変地異が起こりそうだと言ってまわっていたところ、大地震はその8日後に起こったそうだ。さすが神経がピ−ンと張り詰めていた芥川であったればこそ自然の中に地震の予兆を読み取ったのだろう。
ところで芥川の自殺は1927年、「ただぼんやりした不安」との理由を残し、服毒自殺した。世相の中にも何らか崩壊の予兆を感じとったのであろうか。または関東大震災後に続いた凄惨な事件(社会主義者虐殺・朝鮮人虐殺など)が彼のの心に暗い影をなげかけたのではないかとも想像する。
ところで、大震災の意味を「天譴」や「天誅」として捉えた識者も多かった。その意味から大地震をひそかに「期待」していたものさえいる。その筆頭が日本資本主義の立役者である渋沢栄一であり、小説家の生田長江であった。
生田は、国民的成金根性と救うべからざるデカダンの国民への天譴を表明し、次のようなことを言っている。
「渋沢子爵は今回の震火災を一の天譴であると喝破された。さすがは渋沢子爵であると思い、あんな地位にいる人さえ、あんな具合に見ていたこれまでの日本の社会であるかとも思って、感慨これをひさしうした」
こうした天譴論は実は、渋沢、生田、にとどまらずに、多くの人々が口にしていたことであった。
天譴論の内容の是非はどうあれ、それは少なくとも天災は無意味な自然現象ではなく、人間にとって意味のあるものと説く。
しかし評論家の清水幾多郎は、小学校の頃、関東大震災・天譴論を説く小学校の教師に次のような質問をしたという。
天譴ならば、本当に贅沢をした人間が罰を受けるべきではないのか、浪費も贅沢も見に覚えが人間が、どうして、天罰をうけるのか、同じ東京でも下町だけひどい目に遇い、山の手が殆ど何の被害も受けなかったのは、どう解釈したらよいのか、と。なんと利発な子供でしょうか

確かに天譴が選択的ではないという事実は、天譴論の観念にとって致命的なものであるように思える。天譴はこれを、蒙らなければならぬ人間を選び出して、この人間のうえにのみ下ったのではないからである。
しかし清水氏が長じて書いた論説(1960年)によると、現実の世界が差別にあふれていればいるほど、また差別される側がそれに無力であればあるほど、差別することなく人々を平等に襲う天災は、現実に多くの死者を出したのが貧しい大衆の側であったというマイナスがあったにせよ、その事後に生み出された社会の様相からみて、ある種の意義(プラス)が見出されるのである、と。ナヌ〜〜?
確かに、社会的に不満を有するものが、ある種の天変地異を望むのは想像できるし、実際に、大正デモクラシ−の時代は、貧富の差や社会的差別の大きさなどが大衆によって先鋭的に自覚された時代だったのだ。実際、1925年には治安維持法が成立するが、容易には進行しない社会改革への無力感も存在したのである。
例えば、関東大震災の後に社会主義者として逮捕された旋盤工に亀戸警察署の特高が次のような言葉を吐いた。 「東京は全部やけた。金持ちも貧乏人もなくなった。お前らの理想どうりになった。
お前らの満足の行くようにしてやる」と。
キリスト者内村鑑三などは震災を神を蔑ろにする日本人に対するキリスト教的な天譴と解釈し「我らの説教を以ってしては到底能はざる大改造を、神は地震と火をもって行いたもうたのである」とも言っている。
確かに無差別に人々を襲った夥しい死の跡には、少なくともその時点での大衆の改革の運動によっては容易には実現できなかった社会が萌していたのだ。
ただし、そうした平等が人間による有為な建設によるものではなく、破壊や崩壊における、いわば焦土の中の平等であった、とはカナリ皮肉ではある。
そこで、サンフランシスコで大地震に遭遇した幸徳秋水のことを思い浮かべた。
明治の社会主義者の幸徳秋水は1905年11月14日、伊予丸でサンフランシスコに渡っている。出獄後の健康回復のためと同じ高知出身で印刷所を経営する岡繁樹らが設立した平民社桑港支部を日本の革命運動の震源地とするためであった。
 渡米中の1906年サンフランシスコ地震に遭遇し一時的に私有財産や貨幣価値が無効となった事態に接して平等な配給社会を感じたという。
実は私がエッと思ったのは、こうした社会主義者が幾年もかかって未だに成し遂げ得なかった平等を自然はわけもなく遣ってしまった、という感覚である。
清水氏の論説も含めこうした点に私が抱く異和感は、夥しい死の犠牲を超えるほどの価値を、いまや社会主義に見出せない以上は、当然といえば当然なのである。

平凡ですが、もし今日、関東大震災に意義を見出そうとするならば以下のとおりです。
関東大震災前夜、首都圏で都市生活者が増え、東京にはサラリ−マンがふえ、カフェなどが多く作られ新しい都市のライフ・スタイルが人々に普及し始めんとした、その矢先をドス−ンと襲ったのが関東大震災であった。関東大震災は確かに多くの生命や財産を喪失させたことは間違いない。
しかしそれが、首都圏の既存の風物を一掃し再開発に手を貸し、文化住宅などの建設を促進し、現代化のスピ−ドを加速させたという面もある。
東京市長・後藤新平により帝都復興計画が提案され、被災地を全て一旦、国が買い取る提案や、自動車時代を見越した100m道路の建設、ライフラインの共同溝化など近代都市計画案が出されている。そして人口増加の主勢は、下町から山の手に移っていく。(ただし、1945年東京大空襲により再び灰燼に帰した部分も多いと思うが。)
罹災者の気持ちを考えてあまり口に出されれてはいないが、もし関東大震災が起きなかったとしたら、東京の大規模な再開発は不可能であったろうし、やるとしても膨大な費用と時間が必要であったろうと思う。そしてあらためてそのタイミングを見直した時に、偶然以上の何かを感じてしまうのである。