世界中に、民主制や共和制を名乗る国々はたくさんある。北朝鮮の正式名称は「朝鮮民主主義人民共和国」なのだそうだ。この国名も偽装工作のひとつかなどと思うが、北朝鮮と対峙するアメリカの二大政党も民主党と共和党で、大まかなイメ−ジというものはあっても、そもそも民主制とか共和制とは、一体どのようなものか気になるところである。

「政治経済」の教科書では、健全な議会制民主主義こそ今日のあるべき民主主義であるといっている。
しかし、「議会制民主主義」ということは本来は言葉の矛盾でしかない。
JJ・ルソ−の政治思想は、政治の常識を考え直す上で示唆に富んでいるが、ルソ−の政治思想の核心のひとつは、
人民が自分に代わって統治する指導者達をもっているならば、その指導者にどんな名が冠されていようとも、そこにあるのは貴族政であることに何ら変わりはない、というものである。
要するにルソ−は、有権者全員が政治に直接参加するアテネで行われていたような政治体制こそが民主政治であって、人々が代表者を選出して行われている間接民主政治は、民主政ではなく貴族政といっているのである。
日本の国会の現状つまり世襲議員の割拠をみれば、なんか思い当たるし、これからの時代に貧困の世襲まで行われていくならば、民主政の名を借りた貴族政の色彩がますます濃くなりそうな気がしなくもない
ルソ−の定義に忠実に従えば、議会制民主主義なんて存在しえない、それは貴族政以外の何物でもないからである。
そしてルソ−は、「抽選による選任法は民主政の本質にかなうものだと」と明言した。
確かに、代表者の構成が人々の意思を鏡のように反映すべきもの(縮図)だとかんがえるのならば、母集団からのサンプリングの数学的原理つまり「抽選」によれば良いのであって、何も選挙なんて行う必要はないのだ。
(これからはじまる日本の裁判員の選出方法に準拠すれば良いのである。)
ただ誤解がないように付け加えると、現実の世界でルソ−はけして民主政治をよしとはせず、むしろ彼のいうところの「貴族政」をよしとしている。
それは現実の世界では全員を集めて政治を行う直接民主制が物理的に不可能というばかりではなく、市民の大部分は選挙することに関しては能力があっても、選挙されるに足るだけの能力は持ち合わせていない、ということをルソ−は充分に認識していた。
ところで、フランスの「ミシュラン」は専門家によるレストランの格付けらしいが、アメリカの「ザガット」は一般読者による格付けだそうです。
政治における「ミシュラン風」とは、選任された人々が個人の利害を離れ広い視野と高い理念をもつことを意味することにすると、そういう「貴族政」(=代表制)は大歓迎です。

ところでルソ−とならんで「政治経済」の教科書にでてくるモンテスキュ−の「三権分立の思想」は近代民主政治の原理のひとつということになっている。
モンテスキュ−は、権力がひとつに集まると濫用がおこることを懸念し権力を三つに分けたのだが、けしてそれは「民主主義」を志向したものではなかった。むしろ議会によって締め出された君主にもちゃんと行政権を持たせようとしたにすぎない
現実世界は様々な階級や身分の人々により構成されているので、平民、貴族、国王にそれぞれ立法権、司法権、行政権を握らそうとしたし、議会も、平民の議会と貴族の議会の二つに分けたのである。
モンテスキュ−は王政や貴族政を前提にして権力分立を主張したのであり、それによって圧倒的な人数を占める第三身分たる平民を中心とした民主政治を目指そうとしたものではない。
むしろモンテスキュ−は、社会の上流層に特権を認め、貴族的な身分のものだけからなる議会を作っておくことが現実的だと考えたのだ。
「国家には常に、出生、富、名誉によって際立った人々がいる。しかし、もし彼らが人民の中に混ぜ込まれ,他の者と同様に一票しか持たないとすれば、一般人の自由は彼らの隷従となり、彼らにはそのような自由を擁護する利益が一切なくなってしまう。」
民主制はどうしてもある程度の「国民の同質性を前提とするが、それでもあえて「民主的なもの」を求めるならば階級ごとに細分化するという変な形になってしまう。
今日、身分や階級もないアメリカにおける「三権分立」とはモンテスキュ−の想定した社会像とは異なり、それでは大統領制下での権力分立とはどんな意味があるのかと問いたくなるが、アメリカ大統領の権限は、もともとイギリスの王権を模して作られたものである、ということを付言しておきましょう。

ところで民主政治実現の代表的な方法(ル−ル)には、「多数決の原理」というのがある。
多数決が正常に行われる前提は、人々にある程度均質な場合である。そしてこの「多数決の原理」に関する山本七平氏の指摘は示唆に富んでいる。
山本氏は、日本で民主政治が受け入れられた背景には「多数決」が伝統的に日本で行われたことを示したが、その多数決が意味するところは今日のそれとはとはまったく異なっている、ことを指摘したのである。
多数決の原理を採用した多くの民族において、それは「神慮」や「神意」を問う方式だった
古代の人々は重大な決定をする時に、その集団の全員が神に祈って神意を問うた。そうして多数決の方式で評決すれば、神意が現れると信じたのである。そしてその決定が全員を拘束するのである。
したがって多数決の決定を、「数の論理」がまかり通るといった批判は成り立たないのである
そこで大切なことは、あくまでも神意を問う場面で、親の意向はとか、師匠の意向はとかいったシガラミに振り回されてはいけないのである。
あえていえば「自立した個人」であることが必要で、賄賂なんていうのは神仏への冒涜でさえある。
カトリック教会で枢機卿が教皇を選出する際も多数決がとられるが、祈りつつ行われる投票の結果は「神意」の表れであり、従って教皇は神の意思で教皇になったのであり、誰も文句は言えない。
しかし身分差の明確な世界で「多数決原理」は一般化しにくい、日本で多数決が行われたのは、比叡山や高野山などの寺院内に限定され、しかも様々な縁を断ち切った「出家」のみが、自己の良心に従って投票できたということだそうだ
多数決原理は、「政治経済」の教科書がいうがごとく「民主政治のル−ル」なんかじゃなくて、もともと「神政政治のル−ル」だった。
アメリカで陪臣員制が正当性を持ちえたのは、ひとつにはそういう思想的背景があったからです。

最後に「共和制」ということであるが、民主制の起源はアテネであるが共和制の起源はロ−マである。
「共和制」(リパブリック)の本質的な意味は「みんなのもの」(全員のもの)ということである。
とうことは「一人のもの」である絶対王政と対置されるべきものである。絶対王権は国土や人民は王の私物なので、人が生まれればその存在自体に税金(人頭税)が取られるし、王様の土地を往来すれば通行税を取られても、どこかで居座れば家屋税をとられてもなんら不思議ではないのだ。
それに対して共和制の本質が、全員のものということならば、それは「全員の共通な利益を目指した法をもつ」というミニマムな条件を満たしていなければならない。
アテネで行われた民主制は、奴隷や女性を排除した形での民主制なので共和制とはいえないし、明治憲法のような欽定憲法の下で国民を臣民と位置づけた国家は共和制とはいえない。だいたい共和制の考え方からすれば欽定憲法なんて法とは認められないのだ。
また貴族や聖職者に免税特権を認めた場合は共和制とはいえない。
近代におよび選挙権が拡大し普通選挙が実現し議会で一般意思と認められる法がつくられる条件が整うにつれて、つまり政治制度において「みんなのもの」が実現するに従って、ルソ−のいうように本来は「民主制」とはいえなかった「代表制」も、「民主的なもの」と認められるようになったということである
かくして「政治経済の教科書」の「健全な議会制民主主義」という言葉が託宣のごとき響きを持つに至ったのである。
つまり共和制は、民主制と代表制とを結びつける「接ぎ木」的な役割を果たしたことになる
アメリカの共和党は、諸州がひとつにまとまる「連邦派」を起源とし、民主党が諸州それぞれで民主制を追及する「反連邦派」(州権派)を起源としていることにも対応している。