作詞家の故郷


作家・開高健の言葉に、「人を男にするのは危機とあそびである」とある。
ベトナム戦争の多くの死者が出る中、自ら辛くも生還した「危機」体験をもつ開高氏には、文章ではとうてい届かない「真実」の重みを知ってか、旅行記以外にはあまりものを書かなくなったといわれている。
「危機」を体験した後、開高氏は自然を求め旅に出る、つまり「あそぶ」ようになる。
私は開高氏の言葉の真意を充分には理解できないのであるが、この言葉をもう少し別なコンテキストから面白いと思った。
それは「人を創造的にするのは、危機とあそびである」ということである。 「危機」と「あそび」は、一般に「対概念」であるにもかかわらず、創造的な活動の両翼であるということだ。
つまりすべての創造的営為は「危機」的要素と「あそび」的要素の比重によってその方向性が決まる。
さて刑務所に入れられてしまった人間は、一生の「罪の烙印」を受けたものものであり、出所後も二度と晴れがましい人生が待っているとは思えない。脛に傷ある者を社会をそうやすやすとは受け入れてはくれず、刑務所暮らしとは人生にとって単なる危機以上のものであるに違いない。
つまり刑務所生活ではいかに「更正」という言葉があってもせいぜい自分が崩れぬように身を保つのがせいぜいで、 その中で何かを「あそび」に転じるなど通常では考えられないような気がする。
もっともフランスの小説家アンリ・シャリエールのようにフランス領ギアナの徒刑場で無期懲役受刑囚として過ごした体験を脱獄後に「パピヨン」として発表し1000万部を売り、蝶よ花よと生きた人間もいるにはいるが。

戦前の無政府主義者の大杉栄は、刑務所に入るたびに外国語を一つ覚えたという。刑務所は他にすることがあまりないことや刑務所内の音の反響により外国語を学ぶには最適な環境にあるといってよい。また書籍さえあれば研究者生活にもむいていると思う。ただし研究のモティベ−ションをどこに置くかという問題はある。
私が小学生だったころ「終身犯」という実話を基にした映画を見たことがある。
バート・ランカスター演じるストラウドは曲がったことが大嫌い、それが災いして恋人に乱暴した男を殺した罪で12年の刑を受け連邦刑務所に収監される。そして刑務所内でも母親を馬鹿にした男に暴行を加え、さらには遠方から面会に来た母親を追い返した冷酷な看守を殺してしまい、終身刑となってしまう。
あまりに生一本で罪を重ねる男が、一羽の雀を拾った事から心を変えられていく。
男は小鳥の飼育を始め、ついにはカナリヤの熱病の治療法を発見し、看守長の妨害にも断固立ち向かい鳥の研究を続ける。刑務所内に鳥小屋や研究室を持つ事を許可された彼は、カナリアの熱病の研究で論文まで発表していく。
小さな生き物への愛をきっかけに、夢と生きがいを取り戻し、人柄が変えられてゆき、ついには温厚な学者にまでなるという感動的な実話であった。
アメリカの作家・オ−ヘンリ−は刑務所生活が作家転身への大きな契機となっている。オ−ヘンリ−は「最後の一葉」や「賢者の贈り物」など優しさとアイロニ−あふれる作品を書いた作家である。
オー・ヘンリーは1862年、米国のノースカロライナ州グリーンズボロで、医師の息子として生まれた。
3歳の時に母親が亡くなり、教育者の叔母によって育てられた。
病弱であったために知人のすすめにより、1882年よりテキサスに移り住み、薬剤師、ジャーナリスト、銀行の出納係などさまざまな職を転々とした。
1884年、テキサスのオースティンに移り住んだ後に結婚し諷刺週刊紙を刊行したがうまくいかず、同誌は翌年に廃刊となった。その後「ヒューストン・ポスト」にコラムニスト兼記者として参加するようになった。
ところが1896年以前に働いていたオハイオ銀行の金を横領した疑いで起訴された。経営がうまくいっていなかった週刊紙の運営費に回したと思われたのである。
銀行側も周囲も好意的であったにもかかわらず、彼は、病気の妻と娘を残してニューオリンズへと逃亡した。
1897年には妻の危篤を聞きつけて家にもどるが甲斐なく同年先立たれた。翌年には懲役5年の有罪判決を受ける。

この横領の真相については、彼自身が何も語らずいまだ不明である。
服役前から掌編小説を書き始めていたが、この服役中にも多くの作品を密かに新聞社や雑誌社に送り、3作が服役期間中に出版された。模範囚として減刑され、1904年7月には釈放となった。
釈放された後、娘と義父母が待つピッツバーグで新しい生活を始めた記者として働く一方で、作家活動を続けた。
1902年には作家として売り込みもしやすいニューヨークへと単身移り住み多くの作品を発表、出版した。1907年11月幼なじみのと再婚し、娘のマーガレット女性を呼び寄せ新しい生活を始めたものの、過度の飲酒から体を壊しており、家族とはまたバラバラに生活をすることとなった。
オー・ヘンリーは刑務所に入る以前から作品を書いていたがそれは習作の域を出ず、刑務所の入ってからプロの作家としての技量を発揮したといえる。
彼の作品に漂うペ−ソスやアイロニ−は、彼のこうした実体験なしに生まれることはなかったであろう。
つまりウィリアム・シドニ−・ポ−タ−は刑務所で作家「オ−・ヘンリ−」となったのである。彼自身の生涯こそ、彼の作品に負けぬ「アイロニ−」が漂っている。
1910年過度の飲酒を原因とする肝硬変により病院で生涯を閉じた。享年48歳であった。

1968年10月から1969年4月にかけて、東京、京都、函館、名古屋で4人を射殺し、いわゆる広域重要指定をうけた「連続ピストル射殺事件」を引き起こした永山則男は1969年4月に東京で逮捕された。犯行当時19歳10ヶ月の若さであった。1990年に最高裁判所で、「家庭環境の劣悪さは確かに同情に値するが、彼の兄弟たちは凶悪犯罪を犯していない」として、死刑判決が確定した。
永山は1949年6月、北海道網走市呼人番外地で生まれた。5歳の時、父母の生地であるリンゴの集散地・青森県板柳町の通称マ−ケット長屋で育った。マ-ケット長屋は元引揚者の受け入れのために作られた長屋で飲み屋と夜の女性達の巣となっていた。父親は博打に明け暮れ、永山が中学に入る頃岐阜県の駅構内で行路病死している。
母一人、兄弟姉妹8人の生活は終始貧苦にさらされ、四男の永山は小学生の頃から新聞配達で稼ぐ一方、何度も家出を繰り返した。成長するにつれて着るものも満足に得られない貧困家庭に対する「周囲の冷たい視線」を敏感に感じるようになり、今でいう引きこもりの状態に陥ってしまう。
出席も規定日数にはるかにたりず、成績も惨憺たる状態であった。 東京で就職したいから何がなんでも卒業させてくれと、担任にたのみこみ、書類上で卒業が認められ、集団就職の一員として上京し、渋谷のフル−ツパ−ラ−に就職している。
ところで永山は獄中で、読み書きも困難な状態から独学で執筆活動を開始し、1971年に手記「無知の涙」、「人民をわすれたカナリアたち」を発表した。この印税は4人の被害者遺族へ支払われている。
1983年には小説「木橋」で第19回新日本文学賞を受賞し、1990年には、秋山駿と加賀乙彦の推薦を受けて日本文藝家協会への入会を申し込むが、協会の理事会にて理事の一部が、殺人事件の刑事被告人を入会させてはならないと反対した結果、入会が認められなかった。
そしてこれに抗議した中上健次、筒井康隆、柄谷行人が、日本文藝家協会から脱会するという一幕も起こっている。
1997年8月東京拘置所において永山の死刑が執行された。オ−・ヘンリ−と同じく享年48歳、永山の遺言により、遺灰は故郷の海であるオホーツク海に、弁護士の手によって散布された。
死後、弁護人たちにより「永山子ども基金」が創設された。これは著作の印税を国内と世界の貧しい子どもたちに寄付してほしいとの、永山の遺言によるもので、貧しさから犯罪を起こすことのないようにとの願いが込められている。
獄中から手記や短歌を自ら発表する死刑囚は多いが、自らの罪を認めつつ自己の行動を客観的にふりかえるという手法で創作活動を行い、文壇において一定の地位を獲得するまでに至った永山は、死刑囚としては初めてのケ−スといえる。

以上のように、刑務所内での自己保持と自己確認の過程つまり「危機」への対応の中で結晶した作品群が、たまたま世に認められたりすることもある。
ただ私は刑務所生活は「危機」ではあれ「極限状況」というわけではないと思う。
大岡昇平「野火」などのように、刑務所よりもさらに危機的状況で生み出された創造的作品というものを考える時、刑務所内における創造を殊更、特別視する必要はない。
人の歩みそれ自体、間延びした死刑宣告を待つ檻なしの服役、といえなくもないのだから。