作詞家の故郷


拝啓 マッカ−サ−さま。あなたはアメリカ本国で渦巻く「天皇戦犯論」を退け、天皇を日本のシンボルと位置づけ、欧米精神の粋たる自由と平等の観念を植えつけるべく占領政策を実施し、比較的平和裡にそれらを遂行することに成功しました。
その時代を生きたものではなくとも胸を打つ一片の写真がある。手を腰に当てリラックスした長身のマッカ−サ−とその横に 直立不動で姿勢を正す緊張気味の昭和天皇。多くの人が見たことがある写真であるが、この写真ほど日本が戦争に敗れたということを直截に国民に伝えたものはない、といわれている。
この写真が撮られたのは、1945年9月アメリカ大使館における天皇とマッカ−サ−の初対面の時の写真である。敗戦後1ヶ月ほどして、天皇の側からアメリカ大使館に出向き短い会談を行っている。
日本政府は「不敬」にあたるとしてアメリカ側にこの写真の新聞掲載を差し止めるように要望をだしたが、アメリカ側をそれを拒絶してこの写真の新聞掲載となった。というわけで日本人はこの写真を通じて敗戦の事実をあらためて突きつけられたのである。
振り返れば現人神と崇められまもなく「人間宣言」を行う天皇と、神のごとく畏怖されるマッカ−サ−の対面であった。実はわずか30分ほどのこの二人の会談で何が話あわれたのか、一切明らかにされていない。
しかしマッカ−サ−は「回想録」によると、この僅かばかりの出会いを通じて天皇を「日本最高の紳士」と評し、すっかり天皇のシンパサイザ−になったらしい。
一般論として、敗軍の将は、命乞いや財産の保護を願うはずだ、とマッカ−サ−は思っていた。ところが昭和天皇の口からはそうした言葉は一切でずに「自分の命はどうなってもいいから国民の命を救ってください」という言葉であった。この言葉はけして口先だけの軽い言葉ではなかった。
なぜなら、アメリカでは実際に「天皇処刑論」という世論が渦巻いていたからだ。
マッカ−サ−はこの言葉に従来の天皇に対する考えを一変させ深い敬意の念を抱いたのである。
マッカ−サ-はむしろ、占領政策の中で天皇と国民との一体性をむしろ活用した方が得策であると考えるようになる。
マッカ−サ−は、畏れられると同時にある部分親しみもこめて 日本国民から「マッカ−サ−さま」とよばれるようになる。もちろん占領軍(アメリカ軍)の駐留は様々な問題を引き起こしその傷跡がけして小さいとはいわないが、総じて占領が平和裡に進んだのも、あの天皇とマッカ−サ−の初対面、つまり深い部分で出会いが大きな要素のひとつではなかったか、と思うのである。
この当時、米軍兵士にガムやチョコレ−トをもらう町の子供達の姿に、日本人はアメリカを「観念」としてではなく、「生身」として体感したということ、をあらためて認識させられる。
そして日本人はその物量・精神・科学いずれをとっても、「こりゃあかんわ」と敗戦を素直に認めざるをえず、むしろアメリカン・スタイルへの憧れを強めたといってよい。国民同士がじかに接して理解を深め合うというのは「占領」という形もあり得るということだ。

拝啓 マッカ−サ−さま。あなたは土地を奪い取られた小作農民にただ同然の安値で土地を提供し、彼らの父祖伝来の怨念を一掃し、志賀直哉の小説「小僧の神様」を200万倍したような真の「農民の神様」であられました。
マッカ−サ−が一掃した一般農民のルサンチマン(怨念)といったいなんだったのか。明治初期、地主の「土地の所有権」といってもたいしたものではなかった。徳川時代以来、幕府が田畑の「永代売買」を禁止してしていたので、土の上の部分はくわで耕す小作人のもの、下の部分つまり底土のみが地主のものだ、というように素朴に考えていた。つまり一つの土地に所有権が重複していたというわけである。
だから「地主の権利」といっても、彼らの意思だけで土地を自由に使用、収益、処分ができるわけではないく、小作人の権利が留保される分、税(年貢)も実際に耕す小作人が支払っていた、というわけである。
新たなる資本主義の黎明期に所有権の考え方にも近代化を迫られ「地租改正」が行われる。地租改正なるものはそうした曖昧な所有関係を一掃させ来るべき本格的な産業社会の到来に備えたと見てよい。
この時代の農民にとっての運命の分かれ道は、地租という税金を納める義務を引き受けた者に政府は「地券」という所有権確認書を渡した。この「地券」がこれほどまでに農民層の分化をもたらすものであるとは明治政府の高官も、または農民一般が自覚するものではなかったのである。
多くの農民にとってこの、税金を払う義務をもともなう「地券」を持つことがそれほど魅力的に映ろうはずもない。しばらく前に価値を失った「藩札」ごとくにたわいないもので、そんなことよりも目前の税金を払わないですむということの方が大事で一般農民で「地券」をすすんで買おうというものはほとんどいなかったのである。
結局、「上土」の持ち主は多くは所有権を放棄して「小作人」に成り下がったのである。一方、底土の所有者がほぼ「地主」となるのである。
ところが地租改正以降、明治政府は安定的財政収入を確保するために税金は米納ではなく金納とし、基本的に税金の水準を大きく変えることはなかったが、米価は年々高くなったために地主は米を売って大いに利益を集積した。小作人の方は、地主にあいかわらず物納(米)で小作料を払ったために、その米価上昇の恩恵をほとんど受けなかったのである。
地主はいまや土地を自由売買が許されているので田畑を買い増しますます富んでいった。もちろん経営思わしくない小地主もいて彼らは土地を売って小作人に転落もした。
結局、地租改正により小作人は江戸時代よりも不安定な立場になったといえる。土地の賃貸で田畑を借りるのであるから、地主から土地を返せなどといわれようものならばすべてを失うために、どうしても高い小作料を払い続けることになるのである。
地主は利益を、銀行・鉄道・会社などに投入し子弟を東京の大学にやり、人もうらやむ「旧家」となっていくのである。さらに彼らの中から多くの国会議員が誕生した。
戦前以上のような形で、地主の利益が財閥の利益を結びつき、彼らの利益を守るべく日本の政治が動いていくのである。
たった一枚の「地券」の行方がこれほどまでに天国と地獄とを生んだかというルサンチマンは、たとえ農民が考える余裕もなく生活に追われていたにせよ深く沈潜していたことであろう。
ところが、そのルサンチマンを一掃したのがマッカ−サ−であった。1946年の農地改革まで、小作人として自分の田畑を持たなかった人々が、ただ同然に土地をほぼ1万平方メ−トル(100メ−トル四方)を手にいれたのである。もうもうマッカ−サ−さまさま。
とはいってもマッカ−サ−がやったことは温情なんかではなく、貧しき農民のルサンチマンがいつしか社会主義革命へと繋がる可能性を摘み取っただけなのだ。
一方、地主の方は一万平方メ−トルの土地を米俵3つ程度で譲り渡したわけだから、今度はマッサカサマに死にたくなる。実際に自殺した地主も多く、農地改革で恩恵をうけた小作農家は200万以上にのぼる。

拝啓、マッカ−サ−さま。あなたは後々日本政治における保守・革新の間の論争で膨大な時間とエネルギ−を費やすことになる憲法を、20名程度の憲法しろうと集団を束ねつつわずか一週間程で草案としてまとめあげることができました。
アメリカ人は西に開拓を進めるうちにいたるところに町をつくっていった。荒野の人々は生きるために必要なかぎりで法をつくり、その法の存在こそが彼らが生きてきたことの証明だったのだ。多少でも腕力があり、正義心があるとみんなに認められれば男が町の保安官として誇らしげにバッジをつけて治安を維持する。
さて日本国憲法制定経過は、結局アメリカの開拓精神の延長ではなかったのか、という見方もある。ある人間が荒野に入植したとすると、彼はその共同体が作る法のすべてに自分の生活や肉体が関わっていることに気がつくはずである。
となると人が集まり共同体ができはじめた時点でみんなが納得できる法をできるだけ早く一応つくっておこうという気持ちがおきる。
法は極めて厳格であるべきだが、他方紙とペンさえあれば、実に安易にできるのである。生活があるところに、法律ができていくというシンプルさ、そこにあるのは現場感覚のみで、ややこしいことが起きれば、法律の詳しい人々がいる裁判所にもっていけばよいのである。
1945年マッカサ−が厚木飛行場に到着し、サングラスをかけパイプをくわえて飛行機のタラップをおりる姿は、今でもTVなどの特集番組などでみかけるところである。あの姿から西へ西へと進みついには太平洋も越えてしまったカウボ−イの親分なのではないか、などと妄想した。
そうしたマッカ−サ−の胸にアメリカ建国の父達と同じような気持ちの高まりがあったのではないのか。日本という荒れ野に道を作るべくマッカ−サ−は乗り込み、占領政策のスタッフ達にも、建国の父たちの遺伝子が疼いたにちがいないのである。
そしてマッカーサ−が、ソビエトが極東委員会を通じて占領政策に口出しする前に急ぎ憲法制定の既成事実をつくっておこうという目論見があったにせよ、あまりに早急で即席な憲法草案つくりの実態に、西部開拓時代の法つくりの実態を重ね合わせても、それほど大きくハズレてはいないだろう、と思うのである。
とすると開拓者の心意気からしても法律(憲法)などというものは現場に即していつでも変えられるものとして作られていったのである。(日本国憲法に付与された硬性憲法の性格は、日本の軍国主義的傾向に対する強い歯止めの必要からであったと思われるが、彼ら本来の法律感覚とは異なるように思う。)

私はマッカ−サ−のことを知るうちに、アメリカの戦争映画で、フランシス・コッポラ監督の「地獄の黙示録」という映画を思い出した。現地司令官のカ−ツ大佐が森に深くにはいりこみ、いつしか住民達から神とあがめれれ、しだいに精神に常人ではかり知ることのできない「魔のごときもの」を宿してく姿を描いた難解かつ不気味さ漂わせる映画であったように思う。
自身を、「超越するもの」あるいは「正義を体現する」と思うものにヤスヤスと侵入する「魔」のごときものを描いた映画だったように記憶している。その魔にやられて晩年を汚した権力者は枚挙にいとまがない。
マッカ−サ−は日本人にとって畏怖や憧憬そして親しみ対象でもあり、カ−ツ大佐を重ねる合わせるのが適当ではないかもしれない。しかし、マッカ−サ−がそうした「魔」とまったく無関係でいられたかというと、そうともいいきれない。
日本で原爆の実態を目のあたりにしているはずのマッカ−サ−は、1951年朝鮮戦争で核兵器の使用を主張しトル−マン大統領と激しく対立し連合国軍最高司令官総司令部総司令官を解任されている。