海老名弾正と熊本バンド


人というものは、どこまで「ひとつ」になれるのか。
人間がある種の組成で成り立っていると考えるならば、一方の欠落部分をもう一方が完全に埋め合わせる、そんな組成をもった人間が存在しうるのか、ということである。
実際には、人間は恋人にせよ友人にせよ夫婦にせよ「ひとつ」になれるほど単純なものではない。
現実には必ず、ミゾ・ズレ・カンチガイ・カケチガイ・カケワスレ・イキチガイ・ゴミのすて忘れ・掃除機のカケワスレ・新聞の取り忘れ、もうゴメンナサイ、などということがいつもおこるし、暗渠のごとく横たわる深い河を前にして、人々は孤独をしり、哀しみにさそわれるのだ。
そういう時って男は一人、サカナはアブったイカでいい、オンナはムクチな人がいい、マドからミナトが見えりゃいい、などと口ずさむのサ。
小説「マジソン郡の橋」のように人生の晩年にもさしかかった孤独な男女の魂がヒョンなことから「片割れ」に出会い少年の日に戻ったような時間を過ごすなどといった話は、小説が銘打ったようにもし事実とするならば、短期間であったにせよなんとステキなことかと思う。(不倫のことはおいといて)
現実の世界はスペアのきかない「喪失」にあふれているのに、である。
まあ、そこまでの話をするつもりはない。スポ−ツの世界でアイス・ダンスのペアの引き込まれるような至芸を見せられた時に、本当に「人間の融合」がおきているのではないのかとさえ錯覚させられる。
そして、もう片方ぬきでの自分、というものが考えにくい至極のパ−トナ−というものが、世の中には確かに存在するにちがいない、と思う。
こういう場合、相手のパ−トナ−のことを「マイ ハ−フ」(私の半身/片割れ)といってよいのではないか、NHK「トップランナ−」という番組で、バドミントンの潮田・小椋ペアの話を聞きながら、そんなことを思った。

「オグッチ」と「レイちゃん」こと小椋久美子と潮田玲子、バドミントンで世界ランク15位ながらも国際大会で上位に入賞する二人は、北京でのメダル獲りの期待がかかる。
プレ−よし、ルックスよしの二人の登場で、バドミントンというマイナ−スポ−ツが注目をあびている。
性格的には、のんびり型で静の小椋に対し、積極的で動の潮田と対照的。小椋のボケに潮田のツッコミというところでしょうか。2人は全国大会の常連で小学校から対戦していた。
二人の小学校時代の初対戦の時、停電かなにかで試合が中断して、小椋が必死でストレッチして準備していたのに、潮田はベンチでじっと蹲っていた。いざ試合が始まってみると、潮田が一方的に得点を重ねたため、一生懸命にストレッチをしていた自分がバカみたいだった、と小椋は振り返る。さらに、その時のことを小椋はかなり鮮明に覚えているのだが、潮田はまったく思い出せないというのも、小椋にとってみれば、少々グヤジィ〜ところではある。
ジュニアナショナルチームの合宿でたまたま組まされた2人はそのチームの1番手の正規ペアと対戦して勝ってしまったというエピソ−ドがある。
初めて会ったころから2人は気心が合い、ときめきを感じていた。一緒にいて気持ちがなごむし心が許せる、何でも話せて楽しい、という仲だった。好敵手にしてそういうことってあるんですね。
高校は小椋が大阪・四天王寺高で選抜大会で優勝、潮田は全国中学大会優勝し、福岡の九州国際大付属高でも全国制覇している。高校は離れていたが互いの戦績を絶えず意識していた。
そして高校3年の時、地元の実業団か大学進学か進路を決めかねていた潮田に対し先に実業団に決まっていて、どうしてもペアを組みたかった小椋が電話攻勢で一緒にやろう、と潮田を口説き落とし、卒業後一緒に三洋電機に入社した。
 コンビを組んで以来、実力よりルックスで騒がれることに抵抗感を覚えた。力もないのに騒がれて先輩ペアに申し訳ないという思いも、次第に実績を残すにつれで解消されていく。全日本ペアで優勝、日本一になって自信に変わった。またデンマークオープンで世界大会での初優勝を飾った。

  プレースタイルは性格とは逆で剛の小椋、柔の潮田。小椋のパワフルな攻撃と潮田の相手の弱点を見抜き分析する能力がうまく融合した。またコート内で左右の位置のスイッチは息もピッタリ、攻守の役割分担はできている。
 日本バドミントン協会・今井理事は「カミソリの潮田、ナタの小椋」と表現する。
潮田は相手のプレーを分析し、冷静に相手の弱点をつく。(自分は性格が悪いわけじゃないと、潮田が急いでコメント)。潮田は、ネット際のショットが切れ味が光りと、小椋は1メートル70の長身から繰り出すスマッシュが破壊力抜群といわれている。
互いにペアとしての仕事(プレイ)の流儀は、「お互いへの思いやり」「自分達はただの選手」「お互いがいて当たり前」の三つ。
小椋に一番二人がが結びついている部分ってどういうところなのか、と記者が質問すると次のように答えている。
単に練習・試合のためのパートナーとして組んでいる、という以上のものを感じている。 普通、お互いがずっといい時ってなかなか続かない。オグッチが体調崩したり怪我したときでも、一番に自分のことを心配してくれるのはレイちゃんだし、自分もレイちゃんのことをたぶん一番心配していると思う。
自然とそういうふうになっている。自分が怪我をして申し訳ないなと思っていても、「大丈夫」というふうに受け入れてくれるし、私もレイちゃんが怪我をしたら待っていられる自信があるし、他の人よりも深いものがあるとは思う。
もし悪かったとしても、その一時が悪かっただけで、いつかきっとまたいい時が来るって思えるから、一人を責めたりすることもない。逆にこうした方がいいよ、ってアドバイスみたいな感じで話し合ったりするので、だから、ずっと二人が相手のことを思いやってできるんじゃないか。

仮にの話で、もっといいプレーヤーが現れたとしたら、上を目指すためにはペアを解消して、より自分に合ったパートナーと組んでいく、というやり方もある。二人が他のパートナーと組むことはありうるのかという質問に、小椋は次のように答えている。
レイちゃんよりいい選手がいるとは思わないし、そういうふうに違う人と組もうとか思うこともない、と答えている。
マスコミは、注目しているときは勝つと「メダル、メダル!」と騒いで、負けると「な〜んだ」っていう感じになるが、そういう時はどうしているのか、という質問に潮田は、
自分の気持ちを振り回されるのもよくないと思って、自分達はただの選手だって考えるようにしている。最初は注目されて、負けて「なんだ」って言われても、よくても悪くても見ていてくれる人は見ていてくれる、また勝てばちゃんと評価してくれると思う、と答えている。
潮田は、よくても悪くても自分達は変わらずにそのままでやっていこう、という話をした。こういう話もオグッチだからこそ話ができるのだそうだ。

私は、バドミントン部顧問として、小田原アリ−ナで全国大会というもの見たが、感動したことの一つは、日頃の実力をよく知っているはずの自分の学校の生徒が、ダブルスの試合で、互いの力が2倍にも3倍にも膨れ上がるような気がした点である。
潮田は、そういうことが小椋とのペアで起こりうることを語っている。
1年に1、2回しかないが、相手の球がすごく見えて、オグッチとのコンビネーションもすごい息が合っていると感じる時がある。相手が何をしようとしているかわかったり、いつもは入らない球が入ったりというのが、二人がパシッと重なる時があって、そういう時が一番すごい、という。
小椋・ 潮田の存在は、最初に組んだときに、すごいテンポが合うなっていうのは感じて以来、気が合うから一緒に組んでいるということについてあんまり考えたことない。お互いがいて当たり前で、技術が合うからっていうのも考えたことがなくて、本当に、組んでいるのが当然、という感じなのだそうだ。

おそらくオグ・シオは互いの存在が体内に、ナチュラル飲料のように溶け合っているのだろう。
OH! マイ・ハ−フ。