海老名弾正と熊本バンド


誰かに何かを伝えたいという「個の思い」が、いつしか人々の思いとして輝きを放ちはじめることがある。
阿久悠のような練達の作詞家が大衆の心を掴むために歌を書くこともあるが、歌は特定の誰かに伝えようとして生まれるものではないだろうか。心をうつ歌とはそういうものだろう。
少々まえにヒットした歌である岡本真夜の曲「トゥモ−ロ−」は、落ち込んでいた友を励ますために作られたものだという。
つまり優れた「○○に捧げられた歌」は、いつしか「みんなの歌」になるのだが、こういうことはもちろん歌に限らない。個の思いはしばしば万人の心を揺り動かす。多くの芸術作品とはそういうもので結局は「誰か」に捧げられたものか、と思う。
物語が語りはじめられた時に、そこに語り手が心を通わせる人々(子供達)がいた。
最近亡くなった石井桃子さんは、犬養首相邸に司書として通っていた。 515事件で祖父・犬養毅を青年将校の凶行により失った孫達に、英語訳がでたばかりの「こぐまプ−サン」を即興で訳して語り聞かせたのである。
これは後に児童文学者となる石井桃子と「クマのプ−サン」の出会いでもあった。
子供達の不満げな様子をよそに、石井さん読み進むうちに自然と黙読になってしまった。その時の気持ちは、あたたかいもやをかきわけるような、またやわらかいとばりをおしひらくようなき持ちであった、という。
石井さんの即興訳に聞き入り笑い転げた子供達の中には犬養道子さんもいた。
その時の出会いから7年後、石井さん訳した「プサ−さん」が岩波書店より出版された。 結局、石井さんが物語を語るときに心が通わせる子供達がいた。心を通わせようとする何かの対象があってこそ、作品は命を吹き込まれ、個の作家の手を離れて大勢の中に力強く一人歩きを始めるのではないかと思う。

そこで思い出したのは、「不思議の国のアリス」誕生の経緯である。「不思議の国のアリス」の作者はルイス=キャロルとして知られているが、本職は数学者として生涯を送ったドジソンという名の男性である。これは最近知った基礎知識である。
オックスホ−ドの片隅でのかなり地味な生活を送った人物で、誰かがあれが「不思議の国のアリス」の作者ですよ、と教えてくれなければ、気づかなかったかもしれない、そういう存在であったといってよい。
このドジソンさんが、おそらくは自分でも気づかなかったであろう才能とであったのは、3人の姉妹との出会いがあった。
オクスフォードに新しい学寮長であるヘンリー・リデルという人物が、妻子を伴ってクライスト・チャーチに転任してきた。ドジソンはリデル家、特にロリーナ、アリス、イーディスの三姉妹と親しく交際し、三姉妹を連れてのボート遊びが、一種の習慣となっていた。
「不思議の国のアリス」誕生のきっかけはこのボ−ト遊びの中で、ドジソンが三姉妹を喜ばせ楽しませるために、その都度即興で語った物語なのである。
だいたい中年にならんかとするいい年した男が、少女相手に彼女らが夢中になるほど面白くて想像力豊かな話を始めた、そのこと自体が何か「不思議の国のオヤジ」のようにも思えるのですが、一体ドジソンという男性は何者なのか、よほどの変人なのか。確実にいえることは子供達を喜ばせることに奇妙な喜びを見出したオジサンであったということである。
一言でいえばドジソンさん、名前どおりドジでソンな性格でした。内向的で吃音に悩み大人の世界での交友は仕事以外はほとんどない。子供達との交流だけに吃音はなくなり楽しくリラックスできたという。
そういう人って結構世の中にいると思うが、ルイス=キャロルの才能は際物で、まったく子供の目で世界を見、子供の感覚で世界を感じ取り、それを大人の知性と抑制によって言葉として表現できることにあった。
口頭で語った物語を、ドジソンはアリス・リデルから、私のためにアリスの冒険を書いてほしい、とせがまれた。ドジソンは書くことを約束し、その晩ほとんど寝ずに、その物語について思い出せることをすべて紙に書き留めたのである。こうしたものの集積が「不思議の国のアリス」誕生へとつながっていく。
物語を紡ぎだすばかりではなく、それを文字にすることまでも、ドジソンさん、アリスといういたいけな少女になんだか誘導でもされている。つまりドジソンさんの人生ソンばかりじゃなくて、結構、福の神にも恵まれていたのだ。やっぱり人を喜ばせる人間には福の神がつくのか、と思ったりもする。
もちろんあのドジソンさんが世界的な支持をあつめる有名な作家になろうとは、またその才能を引き出したのがリデル三姉妹であったなどということは、この時点で誰が想像できたであろうか。
原稿執筆はロンドン万国博覧会見物のための列車内で行われ、1863年2月10日に本文が完成した。挿絵も添え「地下の国のアリス」と題された肉筆本がアリスに贈られたのである。こうしたいわゆる私本が「不思議の国のアリス」として、ルイス・キャロルの筆名により1865年に出版されたのである。
「不思議の国のアリス」で押しも押されもせぬ名声と富を築き上げる一方で、ドジソンさんは1881年までクライスト・チャーチの教職を続け、あたかもルイス=キャロルという自分の半身によって、単調で規則正しい自分の生活が乱されるのを拒否するかのごとく、私見をいえば「大人になるのを拒否するかのごとく」に、死ぬまでその住居に留まり続けたのである。
1898年1月66歳の誕生日を間近に控え、ドジソンはギルフォードにある姉妹の家に滞在中に、インフルエンザによる肺炎で死亡した。

ドジソンさんとリデル家の三姉妹との出会いのように、ジェイムズ=バリという男とデイヴィス家の幼い息子達との出会いは、新しい物語誕生のきっかけとなった。
パリは1860年スコットランドのキリミュアという織物の町で生まれた。バリが7歳の時、13歳の兄がスケート中に転倒し急死した。
母親は悲嘆にくれ、バリは母親を何とか慰めようと兄の真似をして兄の役割をつとめようとしたが、母親は終生悲しみから立ち直ることはできなかった、という。
彼の兄が13歳の少年のまま、永遠の少年として片時も母の胸を離れることはなかったことは、或る意味でバリの心をも傷つけた、ともいってよい。
兄に代わることはできない苛立ちは、バリに根強く渦巻く感情を抱かせた。13歳の死という代償で母の愛情を完全に手に入れた亡き兄に対する複雑な思いもあった。
バリは大学卒業後、新聞記者や劇の台本書きなどで生計をたて結婚をしたが、子供はいなかった。そしてバリはケンジントン公園に遊びに来ていたデイヴィス家の美しい未亡人とその幼い息子たちに出会う。
そこでバリは、ピーターと名前がついた子供達と冒険ごっこなどをして交流した。そしてバリは彼らとの遊びや行動を観察しながら「ピーターパン」の構想を得たのであった。
ちなみに2004年公開のジョニー・デップ主演映画「ネバーランド」はジェームス・バリが、ピーター・パンのモデルとなった少年と出会い、その物語を完成させるまでを描いた実話を基にしたヒューマンドラマである。

「ピ−タ−パン」という永遠の少年像と今や完全に比肩できるほどの存在になったのが、20世紀の出版界の奇跡といわれた「ハリ−ポッタ−」である。
作者のJKロ−リングは、離婚して故郷に帰るも乳飲み子を抱えて働き口がなく、生活保護を受けながら喫茶店の窓辺で書いた物語が大当たりしたのである。
もちろん「ハリ−ポッタ−」物語が女史の生活の危機の中から突然に湧き出したというのは正確ではない。彼女の「ハリ−ポッタ−」前哨戦は、それ以前からはじまっていたといってよい。
ロンドンの様々な会社で派遣秘書として行う仕事の内容が単調だったり、職場の雰囲気に馴染めなかったりすると、同僚が誘い合って昼休みにパブに出かける中、黙々と大人向けの小説の執筆に励んでいた。
一介の事務員がそうした野心を秘めているとはつゆ知らず、情事でもたのしんでいるのかとからかわれつつ、仕事の書類に思いついたことをタイプでうちこんでいたのである。こうして彼女の作家としての集中力というものが養われていったといってよい。
大学時代のボ−イ・フレンドがマンチェスタ−におり、たびたびロンドンとマンチェスタ−との単調な列車の行き来の中でJKロ−リングは、ハリ−ポッタ−と名前がついた少年と出会うのである。その少年が彼女の空想の世界に住み着くことになる。

「不思議の国のアリス」、「ピ−タ−パン」、そして「ハリ−ポッタ−」の物語の誕生の契機を並べて書いてみて思ったことは、 作者一人一人に、どうしても大人になれない、否、大人なることに抵抗したかのような蹲った叫びがあり、何らかの出会いによりそれが触発されて、物語を紡ぎはじめた、というような感を抱く。
もちろん我々の心の中にも、そうした要素は多分にあると思うのだが、それを美しく躍動する物語として定着させるには、また特別な才能を要するのであろう。
ただ彼らが生み出した物語に、忘れがちな少年の日の心の「琴線」というものが、綻びつつもいまなお残滓を留めていることに多少でも気づかされることは、幸せな体験ではある。