海老名弾正と熊本バンド


世界のブランド・ティファニ−は、宝石ばかりではなく芸術的ななガラス装飾品を生み出し、人々はそれをテイファニ−・グラスと呼び、珍重した。
もしも過去を映し出す水晶玉のようなものが本当にあるならば、ティファニ−の水晶の中にはメイフラワ−号の清教徒達、フランス革命の擾乱、南北戦争の戦火、そしてペリ−来航に沸く日本の姿なども映っているのかもしれない。
T・カポ−ティ−原作で映画化された「ティファニ−で朝食を」ではオ−ドリ−・ヘップバ−ンが自由奔放な女性ホリ−・ブライトリ−を演じ、映画は彼女がティファニ−のショーウィンドウを覗きこむシ−ンにはじまる。
ホリ−は、不安になったらティファニ−に行くと、次のようにニュ−ヨ−ク五番街の店の様子を語っている。

「あの静かな雰囲気、すぐに気分が鎮まってくるわ。銀や鰐皮の財布のすてきな匂いや、ス−ツをきちんと身につけた親切な店員さんたちに囲まれていると、ここでは悪いことなんか、何もおこらないって信じられるの」

映画では、このホリ−の部屋の上にうウニヨシなる日本人が住んでいて、出っ歯とめがねでステレオタイプ化された当時の日本人像というものをみせつけられるのには、かなり閉口させられる。
しかしながら、ティファニ−社の世界ブランドへの発展の大きなエポックは、「日本の美」との出会いであったのだ。

「日本の美」などといっても、金魚鉢に泳ぐ金魚自身がその美しさを充分に理解できない(タブン)ように、日本人も充分にそれを言葉として海外に伝えることはできていないように思う。
風物の美しさを伝えても「心のありよう」までも伝えるというのはむしろ日本に住んだ外国人のほうに利があるのかもしれない。その精神風景にいたるまで日本の美しさを伝えようとした稀有な存在がラフカディオ・ハ−ンがいるが、ヨーロッパでも際立ったジャポニストであったゴッホもハ−ンに劣らず「日本の美」を充分に認知した一人であった、といって過言ではない。
ゴッホがどれほど日本かぶれであったかは、彼が日本の広重などの浮世絵を数多く模写したばかりではなく、晩年にそこが日本の気候に似ていると信じ南フランスのアルルに移住したことからもわかる。
このゴッホが「ゴッホの手紙」のなかで日本人の心について次のように語っている。

「いいかね 彼らみずからが花のように、自然の中に生きていくこんな素朴な日本人たちがわれわらに教えるものこそ、真の宗教ともいえるものではないだろうか。日本の芸術を研究すれば、われわれは因襲的な世界で教育を受け仕事をしているけれども、もっと自然に帰らなければならないのだ」と。

ティファニ−の祖は清教徒の最も初期の移民団に属し、アメリカボストン近くに居を定めるのだが、ニュ−ヨ−クえ現在のティファニ−社の基礎を作ったのはチャ−ルズで、1837年、同郷で義兄のヤングとともに雑貨店を開いた。
店の売り上げを伸ばそうと、品物をいれ変えたり並び替えたりしたが、そうはトンヤがおろさず、ある日ボストン港に入港する船から降おろされた日本製の食卓やラィティング・デスクなどの工芸品に目を奪われる。
そして店にその工芸品を置くと非常な高値で売れたのである。これがティファニ−と日本との出会いの始まりである。
ところで、ティファニ−といえば宝石であるが、この宝石は革命のドサクサの中で多く入手したものであった。フランスで2月革命がおこり、ヨ−ロッパに革命が広がりはじめると、ヨ−ロッパの王族・貴族は国外脱出のための資金が必要となり、チャールズは資金をすべて宝石購入にまわし、その過程で、門外不出と通常考えられたような貴重品が次々とティファニィ−のものになったのである。
移民の子は、欧州の旧体制崩壊の過程で、旧体制のシンボルともいうべき宝石を数多く手に入れることができたある。
しかしながら南北戦争の勃発は、客足が途絶えるばかりではなく、宝石など高級品を狙われ易いという危機感がうまれた。東部エスタブリッシュメントとの交流が深かったチャ−ルスは、アメリカを南北に分裂せじと、パルに支店があった欧州から北軍のための武器調達をはかる。銀器のかわりに剣をつくり、軍服のメダルやボタンをそろえた。
ところでチャ−ルズの息子のルイスは、画才がありそれなりの評価を得たのであるが、生来同じ場所にいられない性格で室内装飾を手がける中、色ガラス製作を試みる中でガラス工芸に魅せられる。そして富を築きジャ−ナリズムにもちあげられ、世間の注目をあびるのだが、同じジャ−ナリズムによって、ルイスのガラス器は生活雑貨にすぎず芸術とは認められないという評が出るや、熱がさめたように売れなくなってしまったのである。
この行き詰まりの中、ティファニ−グラス誕生へのブレイクスル−は、日本と関わる一つの機縁があった。
それは、ラファ−ジという画家の存在で、彼は日本を旅した最初のアメリカ人画家であり、ルイスのガラス工芸確立に協力したのである。ラファ−ジの妻は実はマ−ガレット・ペリ−という名前で、その名が伝えるとおり、黒船来航のペリ−提督の弟の孫という関係にあたる。
ラファ−ジは、妻の実家で偶然にも広重の浮世絵を見て、すっかり日本画に魅せられたのである、これがティファニ−と日本との第二の関わりであったといえるかもしれない。ルイスのガラス工芸の中でも乳白ガラスと紅彩ガラスの製造工程が、このラファ−ジとの協力関係の中で確立されていった。
ラファ−ジはボストンで岡倉天心らと交友し、日本の美は、シンメトリックではないのに形の均衡がとれているとも評した。 しかしルイスとラファ−ジの蜜月はそう長くは続かず、製法特許をめぐって裁判沙汰になる。
そして、ティファニ−・グラスというブランドは、今度はこのラファ−ジとの熾烈な競争の中から生みだされたといっても過言ではないのだ。
ラファ−ジは日本美術を範としてステンドグラスの第一人者として1889年パリ万博でも勲章を得たが、ガラス製品を大量生産し全米に流通させたのはルイスの方だった。
ルイスは、新しい技術者やデザイナ−をまねきいれて工場を拡充させ、ランプ類を庶民にとっても手がとどくほど安価で提供するほどの大量生産でこたえていったのである。
そしてティファニ−・グラスは飛ぶように売れ、世界ブランドの地位を確立していく。

すこし敷居が高いですけど、デパ−トなんぞのティファニ−店をのぞいたら、どこかに煌く「日本」のカケラが見つかるかもしれませんね。ただし朝食はよそで食べていきましょう。