作詞家の故郷


人それぞれ大切なものがある。モノは物言わず、我々によっていいように使われる。そうして酷使されたモノに対して、我々の側の感謝の念なり 罪障感なりがモノに投影して、モノが悲しんだり痛みを訴えたり、モノ扱いするな、と叫んでいるように思えたりもするのである。
そのせいか、いくつもの服を縫製して使われつくした針を供養する伝統が日本にはある。針供養という儀式は、針さんご苦労さんという気持ちをこめて、同時に使った人の魂も神経もその針に宿っているという意識もあっての供養だと思う。
あるモノが担った時間なり経過を知れば、もう少し大切にしなければと思うモノはたくさんある。

だいたいパパからもらったクラリネットをこわしておきながら、反省のかけらも感じさせないあの陽気な曲調は一体何なんだ、 パパがどんなにクラリネットを慈しんだかを知れば、ベ−ト−ベンの「悲愴」ぐらいの曲調にせよ。以上ボヤキ漫才風意見。

アメリカのコンピュ−タ・グラフィックを駆使した傑作映画「トイ・スト−リ−」は、大切に扱われないおもちゃたちが企図した悪がき達に対する反抗の話であった。おもちゃたちが目的を達し終えた時に、静かな「抽象的なモノ」本来の姿に回帰する演出もなかなかよかったと思う。
「マスク」という映画にせよ、打ち捨てられた「古代のお面」が、人間を道ずれにしてあばれだす話だった。「トイ・スト−リ−」と同じくモノが反乱を起こしたスト−リ−とよめなくもない。
要するにモノも人間と同じく正しい評価をうけず、見過ごされたり捨てられたりしている、ということだ。ただ見出すべきものが、その価値を見出したとき、モノはまったく別の光を帯びることもある。
ここではそういう「大切なモノ」の話をしたい。

佐賀県・鳥栖小学校の体育館の片隅に一台のピアノがあった。子供に踏まれたりドッジボ−ルを投げつけられたりしてかなり痛みが激しく、ついに廃棄処分がきった。 その廃棄処分に抗議した一人の女性教師が教頭に語った話、彼女がたった一人の胸に長い間暖めてきた思い出は、多くの人々の胸をうった。
終戦間際、鳥栖小学校に、明日の出撃前にピアノを弾きに来た二人の特攻兵への思いは、映画「月光の光」となって多くの人々の涙をさそった。この元音楽教師は、講演先の宿で急死されたが、その思いは引き継がれ、ピアノは市民よって保存されることになった。現在JR鳥栖駅前のサンメッセ鳥栖の1階フロアに展示されている。
私もこの展示されたピアノを見にいったが、なんと多くの人々がこのピアノへ思いをよせていることか、それはこのピアノに寄せられた花束、絵画、書などによって充分に知ることができた。
ドイツ・フッペル製のこのピアノは、戦死者に対する哀悼という幾多の人々の思いを今なお呼び覚ましているように思われる。
数年前、私が特攻隊の元基地であった鳥栖に近い福岡県筑前町・大刀洗を歩いていた時のこと、土に埋もれたネジやナットを拾いながら歩いている一人の元・兵士(軍属)に出合った。
この老人の話によると、戦争中に軍事工場で飛行機を作っていたが、そうした飛行機の部品ががこうして捨て置かれることにしのびずに、大切に集めているという。
そうしてポケットに集めたものを宝物のように私に見せてくれた。
ホ−ムペ−ジ掲載のために写真をとらせてください、というと「私の人生は終わりました。私はなんのやましいところはありません。どうぞご自由に写真を撮ってください」といわれた。そして写真を撮る時、柔和な顔が軍人の顔に変わった一瞬が、こわいほど忘れがたく印象に残りました。
この老人は戦後、甘木市役所などに勤められていたが、ポケットに集めたネジやナットと同じ時代をいつまでも生きておられるような気がした。

戦争中には、産業報告会などが組織され、一般市民の中で献品運動というのが盛んとなり、家庭の鍋や釜までも戦時の軍事物資に変わっていった。
私は、甘木のある寺で、檀家によって軍に献納されたドイツ製・戦闘機の写真というものを見たことがある。そして住職より当時の陸軍大臣からの感謝状を見せてもらった。住職はその時、戦闘機を献納したのはうちの寺ぐらいでしょうと豪語されていたが、一人の女性の戦争体験を綴った「ガラスのうさぎ」という本を読むと、こういう献品運動が日本中で競うように行われていたことがわかる。
そして寺が戦闘機を献納する形で戦争に協力したということは、それほど珍しいことではない、ということを知った。
戦争中は、人間が日常使うナベ・カマから、神社境内の狛犬の金属部分までもが武器になっていった。日常品を集めて武器にするわけだから、これはもう「逆・刀狩」ですね。
そういえば、豊臣家滅亡の戦い・大阪の陣の原因となった「国家安康」の文字で有名な方広寺の鐘は、江戸時代には鋳潰されて寛永通宝として使われた、というのは私にとって結構インパクトのある話でした。
聖なる寺の「梵鐘」が、俗にまみれた手垢いっぱいの「貨幣」に転じるのもなんかモノ哀しい気がする。戦時と平時では、事物はかように「変転」するものなのですね。

私は、以前、福岡県の糸島半島のつけねにある港町・加布里の一軒の家を訪問した際に、額縁に飾ってあった「漁船の刺繍」をみつけた。主人にその刺繍の由来をきいた時に、はじめて加布里の漁民達が共有した福洋丸事件という出来事を知った。
1952年1月19日、韓国の李承晩大統領が国際法を無視するかたちで一方的に設定した水域境界線を李承晩ラインという。それまでのマッカーサーラインよりも日本に近かったため日本側は抗議したが韓国側は受け付けず、域内に入る日本漁船を次々と拿捕し抑留した。
この時代は日韓基本条約(1965年)により日韓関係が正常化される前で、抑留された加布里漁民達は帰国の見込みもなく釜山の収容先で不安な日々を過ごすことになった。そして収容所に収容された漁民達は、古い糸を拾い集めだれかれとなく刺繍を縫い始めたである。
漁民達は結局、不安な2年間以上の時を過ごした。老人はさらに、当時の記録をよく保存しているという別の御宅に連れて行ってくれた。そこの老人は2時間ばかりの間、網の修理をしながら生き生きと当時の事件の様子を話してくださった。そしてその御宅にもやはり額縁にはいった「バラの刺繍」がかかげてあったのである。
その老人の話の中で一番印象に残った事は、収容所で苦しみを共にした漁民達の絆はいまでも深いということであった。そして福洋丸の29人の乗組員の絆がそれぞれの「刺繍」に編み込まれているようにも見えた。

福洋丸ときて、ビキニ環礁で被爆した第五福竜丸のことを思い出した。私はごく最近、東京の夢の島にある福竜丸の展示館に行って、展示館前の浜辺に置かれている福竜丸のエンジンを見て、船体とは別の運命をたどったそのエンジンの数奇な運命を知った。
第五福竜丸は被爆後、1967年に廃船になったが、エンジンは別の人物に買い取られた。その人物所有の「第三千代川丸」にとりつけられたが、その後、同船は1868年に三重県熊野灘沖で座礁・沈没しエンジンは海中に没した。
1996年12月、28年ぶりにエンジンが海中から引き揚げられ、東京都はエンジンの寄贈をうけ、第五福竜丸展示館に隣接するこの浜辺に展示した、というのである。
福竜丸のエンジンが失われることは、まるで「失われたア−ク」みたいなもので、人類の大切な遺産として、この第五福竜丸の展示された「夢の島」こそ、保存するのに最もふさわしい場所だと思う。

ひとは、多くの思いをモノに託しており、そうした思いをいつまでも留めおきたいと、そうしたモノをいたわる。そうしたモノを捨て去ることのモノ哀しさは、ある尊い時間が永遠に消え去ることへの最後の桎梏となるのだ。
そして大切なモノとは結局、大切な人、大切な時間、そして大切な絆への思いに他ならない、ということを強く思わされた。