ボランティアは、1647年にイギリスで自警団の意味で使われたのがはじめで、その後軍隊の志願兵の意味で使われるようになった。
1937年のスペイン内乱のときにア−ネスト・ヘミングウェイをはじめとする多くの文化人がボランティアとして武器をとったのは有名である。
セツルメントでの福祉活動にボランティアという言葉が使われるようになったのも、社会的正義を実現するための志願兵の意味であった。日本のセルツメントでは賀川豊彦が有名です。
今まで政府が、財政難もありサ−ビスも画一的でかゆいところに手が届かずに、生きていく為にはヨコの連帯をさぐるほかはない。
ムラ社会にみるように、日本のは伝統的にヨコに連帯する智恵に溢れていた。ユイやモヤイなどの労働交換、講などの共同組織、青年団、自警団、寺小屋などにも、そうしたあらわれである。
ただ今日、地域的な深い繋がり(地縁)に期待することはできない。常時共同作業が必要な農業社会ではないし、そのニ−ズは多様であり、そのニ−ズの種類に応じて、それぞれの共同性は幾重にも重なり合い多様な空間的な広がりをもっている。
こういう広がりを「知縁」とよんだらどうだろう

ふりかえるに、1970年代までは福祉・教育・環境などの住民のニ−ズを担ってきたのは、主として地方の行政であったが、 税負担を通じての画一的なサ−ビスは、住民のニ−ズに充分に応えることはできず、住専問題や薬害問題などにみる「政府の失敗」や、人々は、金銭で得られる以上のもを求めているという意味での「市場の失敗」もあって、ある特定の問題に対して利害や関心を寄せる人々の寄付を財源として「非営利組織」(NPO法人)がいたる所処に作られるようになったのである。
ニ−ズの内容とありかとをそれに応えられる人材(ボランティア)に伝えるネットワ−クも、NPOによって安定化し活動も恒常化・永続化することができる。
近代国家の勃興をホッブズは、旧約聖書のヨハネ黙示録に登場する怪物になぞらえ「リバイアサン」とよび、カ−ルマルクスは共産主義の広まりを「ひとつの妖怪がヨーロッパにあらわれている」と評したが、今日の社会は、ネットワ−クの中心にNPO(非営利組織)があり、そうした新しい社会形成を表して「小ドラゴンの跋扈」とでもいいましょう。

しかし、もう一つの流れは営利団体である企業もボランティア事業への参加意識を高めていることである。
こうした企業のボランティア活動への参加を「フィランソロピ−」(=慈善活動)などとよんでいる。
企業の目的は第一義的には利潤追求であるから、企業のボランティア活動というのは、企業の本質からしてそぐわないし、一体、何を狙っての活動なのだろうか。
もちろん「企業の社会的責任」ということは以前から言われてきた。1960年代の公害問題や消費者問題で、被害者がでるにおよび、そうしたことが強く言われたのだが、それはギリギリの「贖罪」のような印象をまぬがれない。
日本の企業での、「フィランソロピ−」などにたいする意識の高まりは何がきっかけだったのだろうか。
1995年の阪神淡路大震災をボランティア元年とも考えられているが、その淵源はもっと以前の意外なところにあった。1985年のプラザ合意で日本は円高になり、多くの企業が生産拠点を海外に移転させた。
1985年当時まで、在米日系工場の数は250に過ぎなかったが、わずか5年後の1991年には、1600に急増化している。
異なる文化と異な人々に企業が根付き「良き市民」としての信頼を勝ち取るために、企業はその社会での貢献ということが必要なことを学んだのだ。その後この経験は、日本の本社に伝えられ、日本国内でも社会貢献について熱心に議論されるきっかけとなった。
ところが、プラザ合意以後の「社会的貢献」は「社会的責任」よりももっと前向きな積極的な要素を秘めている。それは会社としての本業以外の面での貢献という意味合いをもっているから、「社会的責任」の枠を超えて広がりをもっている、ということである。
経団連の定義によると、「社会貢献とは、社会の課題に気づき、自発的にその解決を目指し、直接の対価を求めることなく、そのもてる資源を投入すること」というものである
あまりにもご立派な定義なので、企業という法人は、まるで人格者にならなければ社会にはうけいれられないのか、などと思ってしまう。(そういえば今日、国際貢献する良き国家法人? が求められているのですね)
すごいのは、「直接の見返り求めない」というのであるから、企業の社会的貢献が、売り上げや企業イメ−ジの向上に繋がるような直接的効果を求めるものではない、というのであるからおそれいりました。
では「間接的効果」ならいいのか、とはいっても間接的効果なんてあんまり想像できないので、結局「み返りを求めない企業」なんて本当にあり得るのか。
それで、「社会的貢献」の本質は、「本業以外で」というのがポイントとなるが、実際に企業がどんなことをしているのか、例をあげると、

日本IBMは、視覚障害者の点字情報ネットワ−ク・システム「てんやく広場」をもって福祉に貢献している。
資生堂は銀座にギャラリ−を持ち、長年にわたって若手の画家を育てるなどの「メセナ」を行っている。
アサヒビ−ルは、古典・伝統的ア−トではなく現代ア−トに限って数多く支援している。
伊藤忠商事は、社会関連管理部に「地球環境室」と設けている。
日産自動車は、「子供の想像力開発、異文化理解」といったコンセプトを社会貢献のテーマとしている。

ここまで書いて思うことは、要するに「企業哲学」(理念)とその浸透こそが大切だ。
企業の直接的対価を求めない活動というのも、そうした企業哲学の社会への浸透ということを意味するとすれば、企業にとって「間接的」(=迂回的)には採算は合うのかもしれない。
具体的にいうと、企業の環境を大切にしようという「エコひいき」の哲学は、地域の住民であり消費者でもある従業員によって広まり、そのことがその企業の生産品に対する需要を高める可能性である。
そもそも「採算」など考えること自体が哲学の貧弱かもしれないが、それにしても最近の「儲けたもん勝ち」のホリエモンといい、耐震偽装や食品偽装などといい、いずれも企業哲学の貧弱の所産である。
「もうけを寄付して社会に還元しよう」というのも充分いいけれど、「社会貢献するためにもうけよう」、という考えがあってもおかしくはない
今後、柔軟なフィランソピカルな企業哲学をもったエンタ−プリニュア−(起業家)に人々は引き寄せられ、そこから喜びをわかちあえる成功が導き出されるのかもしれない、と思った。