海老名弾正と熊本バンド


昭和天皇が敗戦直後、8年間にわたり国中をまわって戦争で多くを失った国民に声をかけ励まされた。
これを天皇の全国巡幸といい、厳戒態勢のなかでの移動というわけでもないこの巡幸は、今からふりかえれば世界の歴史に類をみない「奇跡」のようにもうつる。
天皇はいわゆる「人間宣言」あと、その生身の御姿を国民の真近にあらわされた。終始巡幸に随行した侍従長によると、
「昭和22年は大巡幸が5回、小巡幸が1回で、21県を行脚せられた。その自動車での走行距離だけでも、優に1万キロを突破するだろう。合計67日間は文字通りの南船北馬であり、櫛風木雨の旅であった」、つまり天皇の巡幸はある種の苦行を思わせる旅であった。
この全国巡幸は、もともと天皇自らの意思ではあったが、同時に占領軍の側にもある思惑が働いて実現したものである。
そして日米間の天皇観のズレをはからずも表面化させたという点で、興味深い出来事ではあった。

ところで天皇の巡幸前に行われた「人間宣言」について、私は1997年にアメリカのインタ−ネット・プロバイダ−の主宰者のランス氏と次のようなメ−ルのやり取りをしたことがあった。
Yoshimura:
The Emperor "Tenno" had been the god for Japanese until the defeat in the Pacific War. The surrender of Japan meant that the god was defeated.
In other words, it resulted that the image of Tenno collapsed in the mind of all Japanese. All officials of the government must have been afraid that the confusion and anarchism would spread over entire nation.
However, for general people, the direct reason of acceptance of defeat is not only shock of Hiroshima and Nagasaki but the announcement of Tenno.
"Tenno" himself announced also he was merely an ordinary human being on radio in 1945.
I wonder whether the announcement of Tenno was more shocking than Hiroshima and Nagasaki, But Japanese surprisingly did not lose respects for him, instead of thinking of him betrayer. I do not know enough about the mind of people at that time.

Lance:
It was, perhaps, the complete (as complete as any non-native could) understanding of the relationships between the Emperor, the military, and the people that led to the decision.
A whole new set of rules was needed.
Those relationships needed to change in a fundamental way. I think that this made the humiliation of the Emperor served as notice to everyone that things were going to change radically.

私は上記のやりとりの中で、はじめに日本が敗戦を受け入れるということは「神たる天皇が負ける」ということだから微妙な問題を含んでいたと語っている。
それは、何よりも日本人の中での天皇のイメ−ジをくずしたに違いないし、そして敗戦をうけいれるということは天皇が普通の人間であることをうけいれることであり、原爆と同じように大きなショックに違いないなどと、かなり実際と違ったことを書いてしまっている。スマン。
さらに、誰も天皇を裏切りもの呼ばわりをせず尊敬の気持ちを失わなかったのがむしろ不思議で、その当時の日本人の心がよく分からないなどと書いたのに対して、相手のランス氏は、それは天皇と軍と人々との間には完全な理解が敗戦受諾に導いたからだ、戦後は新しいル−ルの中での基本的となる関係が必要となるという意味のことをいっている。
さらに返事の中で、天皇の謙遜な姿勢こそが国民に、物事が劇的に変化しつつあることを知らしめる上で役にたったのだ、ということを書いておられるのだ。
それにしてもランス氏は横田基地に勤めた体験をもっておられる方なのであるが、私とどちらが日本人なのかと思うくらい日本に対する理解を示しているのに対して、私の方はといえば、よくいえば天皇に対して西洋的なカミ理解をしてしまっている。
要するにワカッテイナイということであるが、その理由は天皇の「人間宣言」なるものの意味を私も含め当時の日本人さえよく理解できなかったからなのだと思う。
ところで、天皇の「人間宣言」などというのは、GHQ側が勝手にタイトルとしてつけたもので、それに該当するものを今読んでも、「天皇が神の座からおりて普通の人間になった宣言」のようには読めないのだ。
そこで「人間宣言」にあたるものを現代日本語にすると次のようなものであった。

わたしとわたしの国との間にあるきずなは、常に相互の信頼と愛情によって結ばれてきた。それは単なる神話や伝説に依存するものではない。天皇を神とし、また日本人は他の民族よりもすぐれた民族であって、世界を支配するように運命づけられているといった、誤った考え方に、それは基づくものではない

でしょう?ここで客観的に「天皇を神とする観念は間違っている」とは言っているが、天皇は「今日から神様やめます」などとはいってはいない。
GHQの、天皇は日本国民の前で公然と「神の座」から降りるようにというという指示に対して、むしろ困惑したのは天皇の方で、天皇は「私は自分を神だと考えたことはないし、神の権力を自分のものだと偽ったこともない」と語っている。
そもそも「天皇の人間宣言」などというものは存在していないのだ。では「現人神」(あらひとがみ)などの観念はどこからうまれたのかわからないが、実体のない記号みたいなものでしょうか。そして記号を操作したのは軍人達か。

さて、天皇を今の常識では考えにくい、あまりにも危険に満ちた全国巡幸にかりたてたものは、様々な要因があったかと思うが、終戦直後に皇居周辺で起きていた次のような事態も理由の一つにいれてもよいと思う。
戦前、皇室関係者は7500人ほどであったが、GHQの指示により6000人が食糧も仕事のない街にほうりだされた。
ある裁判官が、法に対する誠実さを自ら貫徹したために餓死したほどの飢餓と貧窮の時代なのである。
GHQは皇族に食糧割当を実施したが、天皇はそれに手をつけることを許さず、解雇職員の老齢者に廻させた。
一方職員削減により、皇居の広い庭には雑草がはびこり、その小道も乾季にはチリとホコリと小石で埋まったというようなニュ−スが広まるにつれ、全国の村々で寄合が開かれ、有志が召集され、村々や島々から東京へ群れをなして清掃にやってきた。
全国から集まる清掃部隊は非常に増え、そのうち当番表がつくられたりした。これより毎年、約二万人の日本人が皇居清掃に上京し、その費用は村の寄り合いが負担し、いずれも懸命に熱心に作業した。そうして皇居清掃はあたかも巡礼と化した。
1945年、マッカ−サ-は、日本政府に神道に対して国家補助のすべてを打ち切るように指令し、神社は没落する運命かと思われたが、清掃部隊は神社にも現れたのである。
天皇の全国巡幸の意図は「終戦喪失状態に彷徨せる国民の鼓舞」ということだが、国民の側からの以上のような働きがあり、天皇の巡幸には、人々の以上のような行為に対する恩返しの気持ちも働いたのかもしれない。

天皇は戦時中は雲の上の存在として一般国民がその姿に触れることはめったになかったが、マッカ−サ−の下のナンバ−2のホイットニ−准将はこう考えた。
「天皇がその貧弱な姿を国民の姿をさらせば、天皇がカミ等といった虚妄は完全に打ち砕かれる」と
これはGHQが意図する天皇の神格の否定と、連合軍がお膳立てしたいわゆる天皇の「人間宣言」が意図するものとぴったりと合致するはずであった。
天皇は、かつての軍服で白馬にまたがった大元帥の勇士から、背広に中折帽とういう庶民的な服装に変身し、人々に近づいて気軽に声をかけた。そして、そのぎこちない会話や帽子を上にあげる独特のしぐさがかえって国民には新鮮に映り、戦争で疲弊した国民は、現人神であった天皇の姿に驚きながらも、親しみと感激をもって天皇を迎えたのである。
また、 工場訪問の際には、天皇は労働者の間をぎこちなく歩き回られ、手を差し伸べて握手され、労働者のしどろもどろの言葉に耳を傾け、「ああ そうですか」と繰り返し返答された。
こうした天皇の全国巡幸はホイットニ−准将の予想とは異なり、天皇の権威を貶めていくどころかしだいに天皇の人気を高めていくように思えた。ランス氏のEmailの内容に近いものがありますね
1946年2月世田谷の兵営住宅を慰問された時にクリスチャンの賀川豊彦が巡行の案内役を勤めた時のことを、次のように書いている。
賀川が一番びっくりしたのは、上野駅から流れるようにして近づいてきた浮浪者の群れに、陛下がいちいち挨拶せられたときであった
左翼も解放せられている時代に、天皇は殺されてもよいと腹をきめているとみえ、少しの恐怖もなく、親友に話すように、2、3尺のところまで接近し、「あなたは何処で戦災に逢われましたか、ここで不自由していませんか」と一人一人に聞いていったのである。
ここで思い出すのは、虎ノ門事件である。
昭和天皇は皇太子時代に1923年、無政府主義者により狙撃されているのである。内閣総辞職、警視総監らも辞職する事件であった。
ふつうなら終戦直後のこの時期「夫を返せ!」「せがれを返せ!」の悲痛な叫びがあがっても不思議ではないのである。天皇としても死の覚悟ができなければ全国巡幸などできなかったことではなかろうか。
そして貧民窟で37年間、社会事業に専念してきた賀川でさえも、天皇のそうした姿勢には「負けた」と思ったそうである。

日本国民は天皇行幸のさいの恐懼ひれふすことはなくなったたものの、1950年までに天皇裕仁は天皇としての地位をもっとも堅固に確立し、ホイットニ−准将の意図を完全に打ち砕いてしまった
それどころか、1947年の関西巡幸がはじまる頃には歓迎側の余りのフィーバーぶりに外国人特派員を中心に批判が起こり、また当時軍国主義の象徴として禁止されていた日の丸を掲げる者がでてきたことともあいまって、天皇の政治権力の復活を危惧したGHQは、巡幸の1年間中止をさせるところとなる。
このあと1949年に再開され、52・53年の中断を経て、足かけ8年、1954年8月に残っていた北海道を巡幸して、1946年2月19日からの総日数165日、46都道府県、約3万3千キロの旅が終わる。
なお、悲惨な地上戦(沖縄戦)が展開され、多大に犠牲者を出した沖縄は除かれた。
そして一番最初にすべき(と思う) 、昭和天皇の沖縄訪問は実現することはなかった。
昭和天皇の中で、ついには実現することはなかった沖縄訪問(巡幸)は、終生の悲願であったようである。
1987年、秋の国体で沖縄を訪問される直前、昭和天皇は病 に倒れ、手術の3日ほど後、「もう、だめか」と言われた。それを聞いた医師たちは、ご自分の命の事かと思ったが実はそうではなく、「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのである。昭和天皇の痛恨の気持ちは次の歌にうかがわれる。
思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを。