博覧会の男・佐野常民


日本人と博覧会というものを考える時に私は大阪であった「EXPO70」というものを思い出す。
この博覧会ではアメリカ館で月の石が公開され多くの人々を集めた。また岡本太郎という前衛芸術家の「太陽の塔」が大会のシンボルとして人々の度肝をぬいたことも今だ記憶に残っている。
1970年という年が今にして思えば、戦後日本の一つの到達点であったような気がするのだが、万国博覧会は明治の頃より、「近代日本」を外国に宣伝する機会でもあり、日本政府としてもそれなりの気概もって参加してきたのだと思う。
そして万国博覧会開催に人生を左右された日本人も少なからずいた。
まずは日本資本主義の立役者である渋沢栄一、そして佐賀藩の佐野常民である。

2人がいずれも近代日本の設計者であったことを思うとき、万国博覧会が日本の近代国家形成に果たした役割はけして少なくはない。
渋沢栄一は1840年現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれた。 家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父や従兄弟の尾高惇忠に学問の手解きを受け「尊王攘夷」思想を抱く。
渋沢と従兄たちは、当初高崎城乗っ取りの計画を立てるが失敗し、紆余曲折の経て 渋沢は一橋慶喜に仕えることになる。一橋家の家政改善などに実力を発揮し27歳の時、15代将軍徳川慶喜の実弟で後の水戸藩主、徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を見学するほか欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の内情に広く通じることができた。
明治維新となり欧州から帰国した渋沢は「商法会所」を静岡に設立、その後明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに関わっていく。以上の経緯からわかるように渋沢にとってパリ万国博覧会への随行が大きな転機になっている。

ところで渋沢以上に万国博覧会が大きな影響を与えた人物に佐賀藩精錬方のリ−ダ−である佐野常民がいる。
佐野常民は1822年肥前国佐賀郡早津江村(現・川副町)で生まれている。佐賀藩医師の養子となり医学を修めた。常民は単なる医者にとどまることができず尊王運動に傾倒していくが、藩の知るところとなり長崎転学を命じられた。
1855年幕府の海軍伝習所に入り、航海・造艦・射砲術などを学び、その間大村益次郎など多くの友を得た。また佐賀藩主鍋島直正の信頼を得て長崎で得た知識を基に直正に海軍創設の必要性を説き、自ら佐賀藩の海軍所の責任者となるなど、以降も日本海軍の基礎つくりに尽力した。
彼が初期において最もコ−ディネ−トの才を発揮したのが、汽車・蒸気船の模型の試作であった。
佐野が長崎や京都で学んだ際に知り合った能力と知識のある人物を招きこうした試作をさせたのである。
一般に他藩のものを招いてこうした仕事に従事させることは、藩の機密重視の面からも困難なのであるが、藩主を説いてそれを実現したのである。
  佐賀藩は、長崎に近く他藩に先駆け様々な知識や技術が入ってきたのも事実であるが、佐賀藩のテクノクラート集団である「精錬方」のメンバ−はほとんど他藩からの寄せ集めでその人材招聘の中心的役割を果たしたのが佐野であり、佐野常民はこうして佐賀藩の技術水準を日本のトップクラスに引きげた。
1865年、フランス政府が江戸幕府にパリ万国博覧会への参加をもとめてきた際に、幕府の呼びかけに応えて参加したのは事前に参加決定をしていた薩摩藩を除いては佐賀藩のみであった。
 これは藩主の鍋島直正の進取の気性によるものもあったとはいえ、そこには佐野らが敷いた精錬方の技術水準の高さがあったのだとおもう。
そして1867年パリ万国博覧会参加の実質的なリーダーを務めたのが佐野常民である。
 パリの万国博覧会を参観した佐野の目をひいたものに「赤十字」の展示館があった。国際組織である赤十字は、スイスのアンリ・デュナンの提唱によって1863年に創設されたばかりであった。赤十字のパビリオンには担架や救護車などが展示してあり、もともと外科医を目指していた佐野は、その目新しい救護器機に強い関心をよせたのである。
 そして佐野は1877年に勃発した西南戦争の折、熊本・田原坂の激戦で多くの死傷者が山野に放置されているという事実を報道で知り、パリ万国博覧会でみた赤十字の精神を博愛社として日本で実現すべきだと考えた。
賊軍を救護するという考え方には周囲の抵抗があり佐野の考えは容易には受け入れれれなかったが、九州征討軍の総督・有栖川宮仁に趣意書を直接提出してようやく許可されたのである。
そして佐野は日本における赤十字社の創設者となるのである。
明治維新後も新政府に仕えた佐野は、博覧会総裁となりウィーン、オーストリア・ハンガリー万国博覧会にも参加している。そして日本の産業の近代化をめざす上野の第一回内国博覧会上野でも主導的役割を果たす。
ところで佐賀藩は、陶磁器などを万国博覧会などに出品しヨ−ロ−パの人々の耳目を集めてきたのだが、そのためか佐野は工芸・芸術にも通じ、日本美術協会の前身である竜池会を結成し亡くなるまで会長を務め、芸術家の保護と育成にも尽力している。
この間、アジア大博覧会組織委員長、農商務大臣、農商高等会議議長などの重職にも就いている。

私は佐野常民を見るときに、人の能力というものを考えさせられる。佐野はよくマルチ人間という言い方をされているが、それはけしてレオナルド・ダビンチのような「万能人」というような意味ではない。
佐野は常に藩や国のために何ができるかを考えていく中で、多方面の事柄に関わり見聞を広め、才能ある人々と出会いそこに人脈ができ、それらを統合していくといったコ−デイネ−トの才があったのだと思う。
すなわち才ある多様な人間を招聘、登用、活用し統合するという能力であり、まさにそれは博覧会開催のコ−デイネ−タ−とし発揮した能力にも通じている。
佐野常民の多彩な分野での活躍も結局は、若き日の万国博覧会への参加という経験に収斂しているように見える。
そうして気がついた。佐野常民にとって人生そのものが「博覧会」なのだ。

2007年秋、佐賀県川副町の佐野常民記念館の銅像前で小声で「博覧会男」と唱えてみたら、もっとましなタイトルはないのかと、銅像の表情がかすかに歪んだ気がした。