作詞家の故郷


映画「ステップフォード・ウィフ」は、あまりにも輝かしい経歴を築いた女性達に対して、肩身が狭くなった男達が仕掛けた科学的罠を描いたサスペンス・コメディである。
この映画はニコ−ル・キッドマン演じる女性敏腕プロデュ−サ−の大演説にはじまる。その演説は演技とはいえヒラリ−クリントンにも勝る見事さである。
日本でも土井たか子や田中真紀子のように演説が似合う女性もいるにはいるが、彼女らの演説がどれほどの人々の心を揺り動かすことができるのかは疑問である。映画「極道の妻達」にみる岩下志摩、十朱幸代や三田佳子らの男衆を前にした演説は確かに見ごたえ充分で説得力もあるのだが、如何せんフィクションである。
今から700年以上も前に、そもそも女性が男達の前に立つこと自体さらには話をするだけでも考えにくい時代に、たった一人の女性が多くの武者達の前に屹立しはなった大演説は確かに武者達の心を揺り動かした。
鎌倉幕府、源頼朝の妻・北条政子の承久の乱を前にして行った演説である。
またオ−ストリア・ハプスブルグ家の女帝・マリア・テレジアも北条政子と同様な境遇の中で大演説を行っている。それまで父親や夫の厚い庇護の下に生きてきた女性が、はからずも一国や一族をひきいることになり、一生一代の名演説を行って危機を乗り超えたのである。
北条政子とマリア・テレジアの2人の女性は、いかなる経緯で「その時」を迎えたのであろうか。

平家全盛の時代に、伊豆の豪族北条時政の長女、とはいってもかなりの田舎娘だった政子は罪人として伊豆に流されていた源頼朝に恋をした。親の反対を押し切り、半ば駆け落ち同然にして2人は結ばれることになった。
政子の父・時政は源頼朝の監視役であったのに、よりによって娘・政子が頼朝と恋仲になってしまおうとは苦りきった思いもあったであろう。しかしこの結婚を最終的に認めたことが、北条氏の命運をも変えてしまうのだから歴史とは面白いものである。北条氏は、以後、源氏方に鞍替えして平家方と戦っていくことになる。
1180年、皇族の一人・以仁王が源頼政とともに平氏打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に挙兵を呼びかけた。頼朝もそれに呼応して、緒戦の石橋山の戦いで惨敗し北条時政、義時とともに安房に逃れたものの、再挙し東国の武士たちは続々と頼朝の元に参じた。頼朝は数万騎の大軍に膨れ上がり富士川の戦いで勝利し、各地の反対勢力を滅ぼして関東を制圧し鎌倉に本拠をかまえた。
1185年には頼朝の弟・義経は壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼすが、平氏滅亡後、源頼朝と義経は対立する。
結局、頼朝は東北・衣川で義経を破り、義経をかくまった奥州藤原氏を滅ぼして1192年に鎌倉幕府を開いている。
政子は、頼朝の女性に対するハクアイ主義に手を焼き(当時としては当たり前)、恋敵の家に火をつけるなどの気性の激しさものぞかせている。その頼朝も1199年1月、不慮の死でなくなり長子の頼家が家督を継いだ。政子は出家して尼になり尼御台と呼ばれた。
苦労しらずの頼家は、自分思い通りの政治を望み、老臣たちを疎み、若い側近たちを重用した。御家人たちから反発が起きるのは自然の成り行きである。頼家の専制を抑制すべく1200年に、北条時政、北条義時を含む老臣による十三人の合議制が定められた。
頼家は政子の命で出家させられて将軍職を奪われ、伊豆の修善寺に幽閉され、後に暗殺されている。
この時、政子は頼家への愛をとるか、夫・頼朝が敷いた路線を踏襲し守りぬくか、という決断が迫られていた。そして息子・頼家を切り捨てるという非情な決断をしたことになる。
さらに1219年右大臣拝賀の式のために鶴岡八幡宮に入った政子の三男・実朝は甥の公暁に暗殺された。政子はこの悲報に深く嘆き、淵瀬に身を投げようとさえ思いたったと述懐している。
政子は使者を京へ送り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることを願ったが、上皇はこれを拒否し、義時は皇族将軍を諦めて摂関家から三寅(藤原頼経)を迎えた。
三寅はまだ二歳の幼児であり、政子が三寅を後見して将軍の代行をすることになり、「尼将軍」と呼ばれるようになった。
1221年皇権の回復を望む後鳥羽上皇と幕府との対立は深まり、遂に上皇は挙兵に踏み切った。承久の乱のはじまりである。上皇は「義時追討」の宣旨を諸国の守護と地頭に下した。上皇挙兵の報を聞いて鎌倉の御家人たちは動揺した。武士たちの朝廷への畏れは依然として大きかったのである。

ここで政子は御家人たちを前に歴史に残る大演説をする。として「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の宣旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」と涙ながらの名演説を行った。
これで御家人の動揺は収まった。

軍議が開かれ箱根・足柄で迎撃しようとする防御策が強かったが、政子は積極策を支持して幕府軍は出撃した。幕府軍は19万騎の大軍に膨れ上がった。
後鳥羽上皇は、思わぬ幕府軍の出撃に狼狽し、幕府の大軍の前に各地で敗退して後鳥羽上皇は「義時追討の宣旨」を取り下げて事実上降伏し、隠岐島へ流された。

ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世には3人いたが、長女マリア以下すべて娘であった。当然、皇位継承問題がおきるであろう、という不安を抱えていた。過去スペインへと分かれたスペイン系ハプスブルク家が、1700年に断絶したために、跡目争いのためにスペイン継承戦争がおきている。
同様な事態を心配したカ−ル6世は、1713年「国事詔書」を出して、女系の継承も可能であるようにしていた。 しかし1740年10月、カ−ル6世は狩猟に出かけた際に、突然体調を崩し帰らぬ人になった。
そしてカ−ル6世の後に、長女のマリア・テレジアが大公女を継承した。マリアはその時に23歳であったが、4年前に結婚しており、すでに2人の子供があった。
しかしカ−ル6世在世当時は「国事詔書」を認めていたが、王が死ぬと手のひらをかえしたようにマリアの継承を認めないという動きがおこった。フランス、バイエルン、ザクセンが決起し、特にプロイセンは強行だった。 マリア即位後の2ヵ月後には、その王フル−ドリヒ2世が、2万の軍隊を組織しオ−ストリアへ進入した。ほとんど奇襲というべきものであった。1740年から48年まで続くオ−ストリア継承戦争の勃発である。
ウイ−ンにいる家臣たちは狼狽するばかりであったが、若きマリアは毅然として対応していった。小娘と馬鹿にされた面影はそこにはなく、もって生まれた芯の強さと才を遺憾なく発揮した。
マリア・テレジアはバイエルンとの戦いを決意したものの、オーストリアは度重なる戦争のため戦費も援軍もすでになく、宮廷の重臣たちは冷ややかで窮地に追い込まれた。そこで彼女はハンガリーへ乗り込み、9月11日ハンガリー議会で演説を行った。そして軍資金と兵力を獲得し、戦う体勢を整える。
そして切々とハンガリ−議会で自らの窮状を応援を求めた。この行動は、足元を見られ反旗を翻されるおそれさえあったのだが、マリアは粘り強く交渉した。その熱論は5ヶ月にも及んだ。ようやく生まれた息子のヨ−ゼフを胸に抱き、時として嗚咽さえ漏らしながら訴えたという。
そして、ハンガリ−の救援を得、プロイセン・フリ−ドリヒ2世の軍隊に応戦し、自らが継承した領土のほぼ全体を守りとおしたという。

ところで冒頭の「ステップフォ−ド・ワイフ」達はすべて、以前バリバリのキャリア・ウ-マンで、男達をアゴでつかって仕事をしていた女性達である。ニコ−ル・キッドマン演ずるス−パ−キャリアウ-マンの主人公はある事件の責任をとってTV局を辞職する事態に陥る。夫のウォルターは失意のジョアンナを気遣い新たな土地で再起を図ろうと提案し、一家はステップフォード というコネティカット州の美しい町へとやって来る。
 ステップフォード・ワイフたちも美しく不思議なほどに完璧な奥様方、しかしこの町には「秘密」があった。
それは無能な夫達が科学的策略をもちい、理想の妻、甲斐甲斐しい妻として科学的にロボットに(サイボ−グ化)してしまったのである。
そして主人公もこの町の奇妙さにとまどいつつ、次第にその秘密を知っていくという、誠に楽しい映画であった。
「原始太陽であった」かもしれない女性達の能力に「フタ」さえしなかったならば、とてつもなく「タフ」な女性達が確かに存在することを北条政子やマリア・テレジアは証明した。
男達もどこかで封印さたそのタフネスを恐れ、女性達のプチ・ロボット化に長い間いそしんできた、そんなことを暗示する「ステップフォ−ド・ワイフ」でした。