作詞家の故郷


ドイツ移民がフランスの素材とイタリアのスタイルをもちいて作ったアメリカ製の服とは?
答えは「ジ−ンズ」です。

ジーンズはアメリカ発祥とばかり思っていましたが、ジ−ンズという言葉の起源は、イタリアの港町ジェノバである、というのは大変意外でした。フランスの南部の町ニ−ムで製造された「サ−ジ織り生地」が原型といわれている。フランスの伝統的な産業としてしられていた青い丈夫な帆布のことで、ニ−ムから輸出されるようになった生地はフランス語でセルジュ・ドゥ・ニーム、今では「デニム」という言葉に縮まっている。その布地で作ったパンツを履いていた水夫たちを「ジェノイーズ」と呼んでいたことが、現在の「ジーンズ」の語源だと言われている。

ところでリ−バイ・ストラウスというドイツ・バイエルンの生まれの男が、14歳の時ニュ−ヨ−クに移住し兄弟で1860年代ゴ-ルドラッシュに沸くカリフォルニアに殺到した試掘者や開拓者たちに日用品を調達する仕事にで従事していた。
リ−バイの会社(リ−バイス)は、こうした男達の作業服として、デニムの布とジェノヴァの水夫のズボンを組み合わせたのえある。また、槌や道具がポケットにしっかりとおさまるよう縫い目を馬具用の真鍮の鋲で補強することを思いついたのである。
こうしてドイツ移民がフランスの素材とイタリアのスタイルをもちいて典型的なアメリカ製品を生み出したのである。
(ちなみに私が働く福岡市博多区の職場のすぐとなりに「福岡帆布」という会社がある。帆布というのはどういうものか、この会社のパンフレットをいただいて会社の業務内容について話を聞いたところ、この会社の帆布は、本来のヨットの帆による需要はほとんどなく、トラックの荷台や店のひさしに使うシ−トまた体育祭のテントや体育の時間に使うマットなどに使われている、ということであった。)

イタリアの水夫がはくパンツがジ−ンズの原型ならば、日本の女学生が着るセ−ラ−服はイギリスの水兵服がモデルとなっている。私が住む福岡には、日本でセ−ラ−服の発祥といわれる福岡女学院がある。
1915年にアメリカからエリザベス・リ−校長が9代目の校長として着任した。新任のリ−校長ははじめ日本語が話せず、何とか生徒と溶け込もうと、当時アメリカで流行していたバスケットボ−ルやバレ−ボ−ルを指導した。 ところがこれが思わぬ不平を買ってしまう。
当時の女学生の服装は着物にハカマ、これでバレ−やバスケットをやれといわれても、身動きがとれないし服の破れや汚れがはげしい。
生徒達の表情はスポ−ツを通して日増しに明るくなっていくのに悪評不評は日毎に増していった。
頭を抱えたリ−校長は、着物とハカマに変わる新しい制服はないかと探し始め、いろいろ洋服屋を訪ねたり、雑誌をめくったりしたが、なかなかいい制服が見つからない。
しかし灯台下暮らし。 思案のあげくリ−校長は自分がイギリスに留学していた時代に新調し、来日したおりにトランクに入れてきた水兵服を思い出した。
これがが全国的に女学校で採用されるセ−ラ−服の始まりである。
1921年彼女は早速、布地をロンドンから取り寄せ、知り合いの洋服屋のところに行き、リ−校長持参の水平服をモデルにして試着品を作らせた。
ただ昨今の女学生もセ-ラ−服のスカ−フが事故時の応急用に、甲板で声が聞こえるよう広い襟を立て風をよけられるように実用的に作られていることぐらい知っていていい。 いずれにせよエリザベス・リ−が日本に持ち込んだトランクの中に、こんな大ブレイクの火種が潜んでいたとは超サプライズ。

ところでジ−ンズはゴ-ルドラッシュによりブレイクし、いつしかアメリカの若者文化のシンボルとなり、リ-バイスにより大量生産され日本にも輸入された。
ジ−ンズはデニム生地をインディゴ(藍)の自然染料で染めたのがはじまりである。藍染はインディゴは、そのにおいが虫除けや蛇避けになると言われており、日本の伝統技術にもなっていた。
戦後、アメリカより大量に輸入されてくるジ−ンズをみてその染めムラが気になり、自分ならもっといいものが作れると思った一人の男がいた。広島出身の藍染職人貝島定治である。
貝島は女性の作業服のモンペなどの染色を行っていたが、農業の比重の低下と都市化進行によるモンペ需要減少のため工場が赤字経営となり方向転換を模索していた時であった。
そんな中、貝島はアメリカから輸入され広がり始めたジ−ンズに着目した。アメリカ産ジ−ンズの染めムラに染色職人としての血がさわいだ。
貝島は、その技法をもって染めムラのないジ−ンズを生産したのだが、自分が勇んでつくったジ−ンズはアメリカ産と何かが違う、何かが欠けていることに気がついた。アメリカ産ジ−ズのもつような風味が欠けているのだ。
貝島製とアメリカ製とは、生地を縦糸と横糸を交互に編むという方法は共通しているのだが、デニム(生地)を紡ぐ糸そのものに原因があった。アメリカ産のデニムは芯は白く糸の外表だけを青く染めたもので、ジ−ンズが古くなると白い繊維が浮き出て独特の風合いが出てくるのである。
そこで貝島は、糸をそのまま藍につけて染めるのではなく、糸をピ−ンと張り伸ばしきった状態で染めることにより芯は白く表面だけが青いアメリカ産のデニムと同じものを作ることに成功した。
貝島は岡山に会社工場をつくり国産ジーンズを生産する。岡山県倉敷市児島地区はもともと、日本三大絣の一つ「備後絣」の産地で、「織り」と「染め」の技術を持った職人がたくさんいた。その技術を活かし、現在では備後地方を含めた三備地区(備前、備中、備後)つまり現在の広島県と岡山県は、世界に名だたるジーンズ生産地として有名になったのである。
日本人が持つ「モノ作りへのこだわり」は、ジ−ンズ国内生産においても単なるコピーから脱却し、世界中から大きな注目を集めるまでになっている。例えば、ジーンズの色落ちによる独特の風合いは、それをより際立たせるため、一部の生地は織機を最新の高速織機からあえて操作が難しく熟練技術を要する旧式の織機に変更し、コストと時間をかけて不均一でムラのあるものに織り上げられる。
このデニムの原点に近い生地は、古着加工ジーンズ用やプレミアムジーンズ用等として需要の高い特別なデニムとなる。このような誰にでも簡単にマネできない技術力が今日の国産デニムの世界的評価を支えているといってよい。
倉敷市児島は「日本のジーンズ発祥の地」として、見学可能な有名メーカーの工房や日本で唯一のジーンズ資料館「ベティスミス・ジーンズミュージアム」などがある。

ところでジ−ンズは、日本で最初からそれほど好意的にうけいれられたわけではない。
マイク真木が紅白歌合戦に「バラが咲いた」をジ−ズで歌ったら作業服で出るな、Tシャツででたら下着を見せるなと苦情がきたというエピソ−ドもあったし、市議会に議員がジ−パン姿で登場するとは何事かとクレ−ムがついた場面もあった。
もっとも倉敷市議会では、2007年にPRをかねてジ−ンズ議会を開いている。
1960年代は「反抗のシンボル」、最近ではジ−ンズが最もよくにあうタレントに賞を与えるなど「美しく見せるためのスタイル」というようにジ−ズに対する意識もまったく変わってしまった。要するにジ−ンズは何かをシンボライズするものではなくなった、ということだ。
日本社会伝統の「粋」という文化というものがある。江戸時代に奢侈禁止令などによって着飾ること禁止された江戸町人が、隠れたところにちょっとしたお洒落をするというスタイルを生み、それが「粋」という生き方や文化にも繋がったものである。
人々はジ−ンズを、「破いてはく」、「崩してはく」、わざと「古く見せる」などして「着る」を楽しんでいる。
ジーンズの色落ちによる独特の風合いは日本人の伝統的な「わび」「さび」の世界に通じるし、ちょっとした加工をくわえて着るなど、「粋」の文化とも通じ合うようにも思う。

考えてみれば、海の男達の服がジ−パンやセ−ラ−服にトランスフォ−ムし、それを身に着けた男女が街中を闊歩しているなど、奇妙な風景だ。
ただ、長い進化の過程で、海の生物が上陸して外皮を変化させ陸の生物として蟠居していることに比べれば、それほどのことではないかもね。