作詞家の故郷


これは天上から見た光景である。青くそして少し丸みをおびた面、透き通るような珊瑚の島が見える。
或る時突然に綿のようなもの湧き出てきて膨れ上がっていく。丸みを帯びた綿状のものは青い海に薄暗い影をなげかけ、あっというまに海上を広がっていく。
風景の片隅に微小な黒点が見える。船体だろうか。薄暗い影がその微小な黒点に触手を伸ばした瞬間に、その黒点は微かに左右に揺れた。
いまや巨大となった綿状のものは魏然としてその風景の中心を占有した。この光景はほんの数分までそこにあったあの青く透き通った球面と一体どのような関わりをもつのか。

1954年1月 マグロ漁船第五福竜丸140トンは、筒井船長以下23名の乗組員を乗せ、一路中部太平洋のマグロ漁場へとむかっていた。不漁のミッドウエ−海域から南西に方向を転じた第五福竜丸は、3月1日未明、マ−シャル群島の東北海上にあって操業にはいった。その時乗組員達は海上に白く巨大な太陽が西から上るのをみた。数分後、昼の最中に夜のような暗さが周囲をおおった。
そして生暖かくて強い風が吹きつけ船体を激しく揺らした。
船員達は突然の異変を訝しみながらついに 誰とは知れず一人の船員が原水爆の実験ではないかと言った。彼らはあわてて操業を中止し母港静岡県焼津港に向かった。無線で助けをよぼうか。それはできない。そうすれば傍受したアメリカ軍に撃沈される危険がある。
帰港の途上彼らはすでに原爆症の初期症状にみまわれていた。
帰港した福竜丸の船体にも船員達には疲弊の色濃く滲んでいた。帰港した船員達は隔離され検査をうけた。多くの船員は依然体調不良を訴えたが回復していった。
しかし無線長である久保山愛吉という33歳の船員だけは回復せぬまま病床にあった。

彼らが帰港した焼津は、東京と名古屋のほぼ中間に位置する。静岡県のほぼ中央部で駿河湾を臨み、北は遠く富士山を見ることができる全国屈指の漁港がある。
「焼津」の地名は、古事記や日本書紀に登場し、日本武尊が東征の途中、天叢雲剣で草をなぎ倒し火をかけて賊を滅ぼした地名に由来している。
明治時代の文豪ラフカディオハーン=小泉八雲は晩年焼津を愛し6年間ここで夏を過ごし、「焼津にて」などの作品も残している。小泉八雲はここで知り合った漁師・山口乙吉の素朴な人柄に魅了されいつも乙吉の家に滞在した。乙吉の家は現在、愛知県の明治村に移設されている。
 ところでビキニ環礁の水爆実験に被爆した第五福竜丸の帰港後、焼津より水揚げされた魚に放射能が発見されたのである。そして現代に至るまで続く原水爆禁止運動の萌芽が意外なところから現われた。
運動の中心となったのは放射能に汚染された魚が食卓に上るのではないかと危惧を抱いた東京杉並区の主婦達であった。
そして杉並公民館を拠点として原水爆禁止署名運動が広範な広がりをみせ、杉並区議会においても水爆禁止の決議が議決された。杉並公民館はこうして世界的な原水爆禁止運動の発祥の地となったのである。
かつて杉並公民館があった現在の荻窪体育館の前には奇妙な形をしたオブジェが立っている。
「オーロラ」とタイトルがつけられたこの碑は原水爆禁止運動の発祥の地であることを記念して建てられたものである。
被爆から半年後の9月23日に、久保山愛吉さんは 「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」との最後の言葉を残して亡くなった。
 久保山さんは生前、自宅の庭に多くの花々を育てとりわけバラを愛好されていた。久保山さんが亡くなった後、妻のすずさんもその遺志を引き継ぐようにバラを1993年に亡くなるまで育てて来られた。そしてすずさんは、愛吉さんの「最後の言葉」を慈しんできたバラの花に挿して多くの人々に託してきた。
第五福竜丸は東京・江東区の夢の島公園の記念館に保存されている。夢の島とは、東京都の廃棄物の蓄積の末に埋められた人工島である。いまや綺麗な公園に整備されており、ゴミの廃棄場を感じさせるものは何ひとつもない。(実際に私は公園で鼻を地面に当ててだいぶ匂いをかいでみました)
海外には「ラッキ−・ドラゴン」と報道された第五福竜丸の高い尖塔のような展示館が、「つわものどもの夢の跡」(ゴミ廃棄場)のありかを示すメルクマ−ルのように立っているのも、なかなかフ−リュ−なもんです。
第五福竜丸は、本来ならば高濃度廃棄物として解体され捨られる運命であったのですから。

久保山さんの墓は、焼津の弘徳院という寺にあり広島の花である夾竹桃と長崎の花であるあじさいに囲まれてたっている。墓は原始雲の形に象られている。
この墓の前に立つと、久保山さんの魂は個の肉体を離れた普遍的な魂のようにも思えてくる。そして「ユニヴァ−サル・ソウル」という言葉が浮かんだ。
いまなお「ラッキ−・ドラゴン」に思いを留めつつ、この透明な青い球体をも見つめているにちがいない天上の魂なのだ。