海老名弾正と熊本バンド


私が幼少の頃見た最も忘れがたい映画の一つは、ヒッチコック監督の「鳥」だったかもしれない。その「恐怖」という意味で。
美しい半島の町を鳥の集団が襲うという有名な映画である。この「鳥」の舞台となったのは、カリフォルニアのサンフランシスコ寄りの海岸にあるモントレ−という町である。
30代前半にこのモントレ−を訪れたことがある。世界的なゴルフクラブが創設されてはいたが、すばらしい景勝の地で、「鳥」撮影時とその時の風景はそう大きくは違わないであろう、とその時思った。
映画にはティピ−・ヘドレンという女優が演じる美しい女性が登場する。鳥の集団が町をおそい始めた頃、町の人々は噂する、あの女がやってきてから、この町に鳥があふれ出した、と。
この映画、「魔女狩り」の心理をはしなくもついていないだろうか。つまり何らかの不安の増大を、「異分子排除」という形で解消しようとする心理が働いているのではないだろうか、と思う。
ところで魔女狩りはヨ−ロッパ中世の専売特許であるかのように思っていたが、実はアメリカでただ唯一、「魔女裁判」(魔女狩り)が行われた町がある。
モントレ−とはアメリカ大陸の反対側、東海岸のセ−ラムという町でボストンより北に位置する。
1692年の魔女裁判で約200名の女性が告発され、25名が処刑・拷問死したという狂信的な出来事がおきている。
ところで、このセ−ラムでの出来事を小説化したのが、ホ−ソンの「緋文字」であるが、なんとホ−ソンの祖父はこの魔女裁判における死刑執行人だったのである。
このあたりの町は、ヨ−ロッパより早くから自由を求めてやってきた人々が住む町で、彼らは、新天地への夢と同時に大きな不安をも抱えていた。些細なことに怯え、デマや風評に流れ易い心理がそこに渦巻いていた。
その時、人々の心理状態は、あの映画「鳥」で鳥の黒い影におびえていた人々とよく似ていないか
疑心暗鬼の不安の中で、極端な異分子排除がおきるのは、アメリカの現代史の汚点マッカ−シ−旋風(赤狩り)、日本の連合赤軍事件における「総括」などが最も典型的な事例である。

ところで、1950年代初頭のアメリカで、マッカ−シ−という一人の上院議員の発言に人々は異常な反応を示した。そしてこの男自身が予想もしなかったであろう権力のベ−ルを帯びてしまうのである。
「アメリカの世紀」という時代にあって、この男は何を言ったのか、そしてこの男の何をおそれたのか、すぎてしまえばその実体は捉え難いのであるが、大きな癒しがたい傷跡のみを残していったことは明白である。
1949年にソ連が核実験に成功し、中国に革命が成功すると、アメリカの国内に反共主義が強まりのなかで、マッカ−シ−旋風とも呼ばれた「赤狩り」は、人々を恐怖のどん底につき落としたばかりか、幾人かの人達を自殺に追い込んだ。人々は自分が「アカ」呼ばわりされるのを恐れ、この男の発言がはりめぐらす目に見えないバリアに掬い取られてしまったかのようにも見えた。
マッカシ−の決まり文句はけして高尚なものでも複雑なものでもなかった。
つまり「もしもわが政府に共産主義者が一人もいないのであれば、我々は中国を共産主義者に渡さずにすんだはずだ」というものであった。
つまりアメリカの政府内に共産主義つまり赤のスパイがいない限り、毛沢東率いる泥まみれの農民が、アメリカの支援をうけた本物の将軍・蒋介石ににどうして勝利を収めることができようか、と主張したにすぎない。アメリカはベトナム戦争で己の限界を知る前であったので、こういう発言に免疫がなく政府を内側から消耗させる麻薬のようにきいた。
ところを得たマッカ−シ−は、政府内部に巣食う共産主義の一掃を標榜する小委員会を設立し、関係者の思想調査あるいは尋問を行った。マッカ−シ−に少しでも反対するものは、ただそれだけのことでアカと決めつけられた。
そのマッカ−シ−旋風に巻き込まれ、自殺に追い込まれた一人に、日本と深い関わりをもっていたカナダ人がいた。カナダ人外交官ハーバート・ノーマンである。
ハーバート・ノーマンは、父親が宣教師であったに1909年に日本の軽井沢で生まれ15歳まで日本で暮らした。
その後、1927年に結核療養のためカナダに単身帰国療養、トロント大学ののビクトリア・カレッジに入学する。在学中に大恐慌の悲惨な現実に向きあい貧民救済に関わりながら、資本主義体制の矛盾を意識し、ソ連の失業者なき計画経済の成功を目にして社会主義への共感を持つようになる。
その後、ケンブリッジ大学で学びハ−バ−ドと大学・コロンビア大学に学んでいる。 1939年に年にカナダ外務省に入ってふたたび来日、東京のカナダ公使館に勤めた。
しかし戦争のために間もなく軟禁状態におかれ、捕虜交換船でカナダに戻っている。この捕虜交換船でアメリカ側から日本に帰国したのが、ハ−バ−ド大学で知り合い親友ともなった都留重人であった。
終戦直後、ノ-マンは日本での経験をかわれ極東委員会や対日理事会で活動し、またマッカーサーの右腕として民主化政策を推進することになる。
ところでGHQの情報部にはウィロビー准将がいたが、スペインのフランコを崇拝する強力な反共主義者であった。彼は共産主義者の根絶をもくろんでおり、ノーマンに疑いを抱いて秘密裏に調査し、FBIにゆがんだ調査書を送っていた。
ノーマンはマッカーサーの命で府中刑務所からの志賀義雄や徳田球一ら16名の共産党幹部の釈放に立ち会ったことがあったのだ。ただそれだけのことにすぎない。調査書にはノーマンが獄中の共産主義者を解放したことを記していたが、それがマッカーサーの命令の遂行であることは伏せられていたのである。
これがノ−マンがアカの疑いをうけ東京からアメリカに呼び戻され、マ−ッカ−シ−小委員会の二度の尋問をうける契機となった大きな理由であった。
ノ−マンは、ハ−バ−ド大学・コロンビア大学で日本史・中国史を学んでいる。ハーバード大では日本から留学していた社会主義的傾向の強い都留重人と深い親交を結び、都留重人の指導の下に論文を書くが、この交友がノ−マンの運命をある意味左右することになるとは、皮肉であった。

ノ−マンは戦後1946年駐日カナダ代表部主席に就任し、サンフランシスコ対日講和会議の時にはカナダ代表主席随員を務め、ここでも日本と関わっている。
1950年、カナダ政府は赤狩りが始まと、アメリカの圧力のもとにノーマン駐日公使を解任した。
そして冷戦が始まった米ソ間のスパイ戦争のなかでノーマンは被疑者としてしだいに追いつめられていった。
ノーマンがマルクス主義的傾向をもつことは学界でも周知のことだったが、1930年代前後に多くの学徒がマルクス主義の洗礼をうけたことは何も特別なことはないし、一時的に共産主義のシンパサイザ−になったにせよ、実際にノ−マンが共産党に入党したかどうかの決定的な証拠は何一つないのである。まして外交官として実際に「赤」としての動きをしていたかどうかということになると、赤狩りをした張本人たちの勝手な断定であって、いまなお確かなことは何もいえない。
しかし、マッカーシー旋風に巻き込まれてしまったために、エジプト大使としてカイロへに赴任した時に、ハーバード大学時代に親しかった都留重人がアメリカ議会で、自分は学生時代にコミュニストになり、ノーマンと親しかったと証言する。
このニュースをエジプトで聞いてノーマンは衝撃を受け、珍しく鎮静剤を服用したという。
1週間後の1957年4月3日、ノーマンはカイロで日本映画「修禅寺物語」を観ての帰宅後、映画からメッセージを受け取ったような気がすると妻に語る。これが最後の日本とノ−マンとの関わりとなった。ノ-マンがスエズ危機の動乱の中、心身ともに疲労の極にあったことは確かである。
翌日、カイロの9階建てのビルの屋上に登りそこから投身自殺する。彼の死は社会的には無罪の訴えか、罪の贖罪か、二様に解釈されうる。
妻と日本にいる宣教師の兄宛の遺書が残されており、そこには「時」が自分の本質的な無実を証明するとあった。
ノ−マンが親しく付き合った日本人としては、渡辺一夫、丸山真男、加藤周一といった一流の学者がおり彼らは一様にノ−マンの死に衝撃をうけその死を悼んだ。
マッカ−シ−は、あるテレビ番組で、自分の嘘に立ち向かおうとする人に慣れていなかったのか、またはその準備さえできていなかったのか、墓穴を掘り痛手をおった。さらに予想外の権力に酔いしれたのか酒におぼれたのか、陸軍上層部の「愛国心」とまでいわれたジョ−ジ・マ−シャルやアイゼンハワ−までも攻撃するにいたり、人々は急速にマッカ−シ−の熱病から冷めていく。
しだいにマッカ−シ−の中身が暴かれていくのだが、マッカ−シ−の中身はまるで空っぽだったことに気づき人々は再び怖気におそわれた。

マッカ−シ−旋風が通りすぎた後に残したものは深い傷跡のみ、現代の「魔女狩り」は突然に襲う心の内側のサイクロンのようにも見える。同時に、たとえマッカ−シ−が権力者に見えても、実はマッカ−シ−という一人の男に権力は集中などしていないことに気がつかされる。
政府内部の互いの嫉妬、競争心、功名心、疑心暗鬼、不信をマッカ−シ−は触発し解き放った過ぎないのだ。冷戦を背景にしたスパイ容疑という「相互監視」の異常な緊張こそが、「権力」として作用した。
巨大蜘蛛の巣のような「権力」のトラップに掬いとられ、もがき続けた人間の姿が見えてくる。