作詞家の故郷


植えた桜の木が隣家の主人の目を楽しませたとしても、弾いたピアノの音色が隣家の奥様を楽しませたとしても、まさか隣家に金を要求するドケチはいないだろう。
また、工場の煙突の煙が自分の家の洗濯物を汚したところで、洗濯代を工場に要求するほどの猛者(もさ)もいないだろう。
人の生活は、知らぬうちに他人に利益を与えたり被害を与えながら、何らの対価を支払うことなく見返りを要求されることもなく、何もなかったかのように営まれているのだ。
こういう対価の支払いが生じないケ−スを経済学では外部経済とよんでいる。
実際的な話をすると、外部経済のカタマリが公共財で、図書館や道路など一度作られたら誰ももその利益から排除できないし、反対に外部不経済のカタマリが公害で、一度発生しはじめると誰もその被害から免れることができない。マイナスの公共財が公害、という関係である。
一般に、皆で金を出しあって公共財を作ろうとすると、人々はなんとかタダ乗りしようと少なめにしか金を出さないので、公共財は過少にしか供給されない傾向があり、他方、公害は汚染発生者がその費用(洗濯代など)を外部に転嫁して負担を減らそうとするため、過大に供給される傾向がある、といえる。
以上のような経済学的な話から様々な寓話を引き出すことができそうだ。
例えば、他者を利するものは過少にしか評価されず、他者を害するものは過大に評価されるとか、善人は早死にし、憎まれっ子世にはばかる、などなどである。
他者に関わるなかで、外部経済や外部不経済に当てはまるような悲喜劇がまだまだたくさん起きていそうな気がする。
人の運なり、知識なり、威光、なども一見、個人に付随したもののように見えながら、実は相当な「外部性」があり、他者の人生をもおおいに左右するものなのである。
また、そういうものは目に見えず数値化もできず、その対価や見返りを相手に要求できそうにもないという点でも、公共財や公害に非常によく似ているのである。

まず「外部経済」の例として知識の伝播について話たい。
宮崎県串間市の海岸沖にある幸島は、京大の今西錦司らのグル−プによりサル社会の研究が行われた島として有名である。そこでサルは砂つきのイモをジャリジャリとかじっていたが、一頭のメスの子ザルがイモを川へもっていき切り口を川の水で洗って食べた。
これを見たサル研究者は天才だ、神童だ、とその才能に敬意を表し、その子ザルに「イモ」という名をつけた。子供とはいえ女の子なんだから「イモ」はひどいよね。
私は、福岡市郊外のマクドナルド店でポテトを注文する際に、「イモくれ」と言ったヤンキ−風の男を見たことがある。彼こそは「イモ」とよぶに相応しい。
ところで子ザル・イモのイモ洗いは、仲間内に広がり、さらにイモの同輩以下に広がった。しかし母親以外の大人たちには広がらず、大人たちは相変わらずじゃりじゃりやっていたのだ。
しかし世代が変わるとイモ洗いは島全体に広がり、さらに驚いたことにサルたちは今度、川の水ではなく海水につけて塩で味つけしてイモを味わうようになったのである。
ところで天才子ザルの「イモ」は、更なる天才を発揮した。海岸にまかれた砂まみれの小麦を両手にすくい、海の浅いところにもっていき、海水につけ砂が沈んだ後に浮いている小麦をつまんで食べるということをはじめたのである。
そしてイモがあみ出した「小麦選別法」は、イモ洗いとほぼ同様な経過で伝播している。 一つの体験から広がった知識がシマに広がり多くのサルに利益を与えた。
さて、別のシマにこの知識が伝わるのかどうか、それがサルの文化として定着するのかどうかなども興味深いところである。
イモの体験的知識は伝播し、サル社会に多くの利益を与え外部経済をもつ公共財的な役割を果たしたわけであるが、人間の社会では、知識の広がりはもっと複雑で必ずしも拡散的に広がるのではなく、排他的に収斂していく知識も、ある一定の文化様式を生み出している。
古今和歌集の解釈は師匠から弟子へ一定の様式にのっとって伝えられるそうである。これを古今伝授といい、先生から弟子へといわば排他的に伝わっていく知識である。
それは宗教の教祖がその「奥義」を、特定の弟子に伝えるのにも似ている。
企業秘密なんかも、一見知識の伝播を妨げているようにも見えるが、無制限にその知識を広げては質を落とした形で広まり本当の価値を減じてしまうということを考えると、知識の伝播にも制限を設けた方が堅実な場合がある。
また知的所有権も保護されるからこそ、人々は安心して新たな創造に挑戦することができ、その成果はかえって広く堅実に伝播され得るのである。

次に、「外部不経済」の例として「運」とか「ツキ」とかいうものを思い浮かべる。
知識が公共財的に伝播するのに対し、運に見放された人というのは、そのツキのなさが周囲に蔓延するため、悪運が公害的に伝播する要素をもつ。
作家・浅田次郎は競馬愛好家で知られ競馬に関するエッセイを豊富に書いているが、「ツキ」について多くの含蓄のあることを書いている。
競馬に勝つためには「運を任せる」というよりは「運を支配する」ぐらいの気構えが必要なのだが、それは自分が今、運のどの段階にあるかを見極めるのがポイントだそうだ。
経済学ではジュグラ−の波とかキチンの波とか長期と短期の波があるが、それと同じくツキにも長期波動と短期波動がある。
そして自分がどの波のどの位置にいるかをまず見極めることが大切なのだそうだ。
また勝負の女神は気まぐれで、いったん見捨てた人間は徹底的に見捨て続け、いったん拾い上げた人間はとことん面倒を見るそうである。
幸運はある日怒涛のごとくやってきて、幸運で満員になった観光バスから色んな神様がゾロゾロ降りてくる感じだそうである。ところがそこまでもツキまくった人が、「悪運」の伝播者という「外部不経済」にやられ、そっくり運を落として、体重までもゲッソリ落としてしまうこともあるそうだ。
浅田氏によると競馬で悪運がついている状態のことを「クスブリ」というらしい。アイツは今クスブリだから気をつけろ、というわけである。
クスブリはエイズのごとく蔓延する。 そこでクスブリの噂が広がると、オレあんたのこと信じるからさ、などと電話して予想を聞き、その予想した馬券だけは買わないなどという輩もでてくるから、まさに生き馬の目を抜く駆け引きが展開するそうだ。

ところで外部経済的思考を無理やり「愛の世界」に適用すれば、男女の恋愛のやりとりは排他的な私的財(サ−ビス)である一方、少々失礼な言い方をすればマ−ザ−テレサの愛は多くの人に感動を与え人を救うために、公共財(サ−ビス)に近く、やったら街で博愛主義に徹する「遊び人」は公害的にエロ−スを振り撒いている、などと見るのが適切でしょう。
ある種の統制国家での反体制的思想は、一機に伝播蔓延する恐れがあるために、その外部性を断ち切るために、汚染源は「元からたたなきゃダメ」と、収容所への隔離・弾圧・転向などを行うのである。
ところで冷戦の時代に「核の抑止力」ということがいわれてきた。
自由主義に属する日本は、当然にアメリカの「核の傘」に入るわけであり、アメリカの経済力の衰退原因の一つが日本の対米貿易黒字であるという認識から、日本の「安保ただ乗り論」ということが言われていたのを思い出す。
おりしもJMブキャナン教授(1986年ノ−ベル賞受賞)らによって創始され世間で注目されはじめた「公共経済学」のテ−マのひとつが「フリ−ライダ−」(ただ乗り)問題であり、それはまさにアメリカの「核の抑止力」がスケ−ルの大きな「公共財」として認識されていた、ということと関連があったのかもしれない。