作詞家の故郷


旧約聖書の出エジプト記34章に次のような言葉がある。
「あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を”ねたみ”と言って、ねたむ神だからである」
以上の言葉どおり、聖書中の神は「ねたむ神」という側面をもっている。「怒る神」というのは、超越せる神の性格としてもよく理解できるが、「ねたむ」とはあまりに人間的すぎませんか、と思ったりもする。
一方、聖書には、神は人間を「神に似せて創った」とあるから、「ねたむ神」というのは実際に神にはそういう側面があるのかもしれない。
人類は「神の怒り」に対しそれを宥めるため、香をたいたり燔祭を捧げたりして、その儀式の様式そのものが民族の固有の文化を形成したのであるが、それに加え「妬む神」に対する「ジェラシ−対策」というものも、或る部分で何らかの文化を形成しているのではないだろうか。

私がとても面白いと思ったのは、ヨ−ロッパ中世のどこかの国の話で、戦に勝利した凱旋軍をむかえる町の人々が、兵士達を徹底的に馬鹿にし虚仮(コケ)にするそうである。
人々は戦士達に、「ダサ〜」「ゴクツブシ」「キモリン」「KYヤロ−」「メタボー」「エロカッコワリィ−」など、とにかく思いつく限りの罵詈雑言を口々に浴びせかけるのである。
なぜか〜神が勝者に対して妬みを起こさないようにそうするのだそうだ。
そこで思い出すのが旧約聖書に出てくるダビデの話であるが、ダビデはペリシテ人(パレスチナの語源)に勝利して軍を率いてエルサレムに帰京した際に、タンバリンを叩いて我を忘れて神を賛美し踊り歩くのである。
「王たるものの威厳が損なわれますよ」と妻が軽蔑的に苦言を呈するのであるが、ダビデは「神が勝利を与えてくれたのだから、どうしてその神を賛美せずにおられようか」と答え、神はそうして栄光を神に帰するダビデの姿を尊び、反対にプライド高く冷ややかな妻を退け、不妊としたという記載があります。
そこで、神のジェラシ−対策として最も効果的な方法、それは「栄光を神に帰すること」である。
これは「ジェラシ−対策」などというよりも、最も正統かつ普遍的な信仰のあり方といえるかも知れません。
新約聖書の中でイエスは、自分達こそが神に近いと民衆を蔑んでいるパリサイ人や律法学者に対し、「お前達は、すでにこの世で栄光を受けてしまっている」と言って批判している。裏をかえせば、人々に崇めれ畏れられているパリサイ人や律法学者は、天にはもはや栄光は用意されていない、と言っているのである。
結局、「妬む神」が最も嫌うのは、「人が神のごとく崇められる」こと、あるいは「己を神のごとくする」こと、なのです。
生前にか死後にか、こういう「神のごとく崇められた」人々、または「神になろうとした」人々の「偶像破壊」が、どんなに徹底して行われるかということは、世界の歴史が教えるところであり、ましてあの世ではその偶像のカケラも木っ端微塵に吹っ飛んでいることでしょう。

ところで、こういう神または神々への「ジェラシ−対策」文化というものが、日本の文化にはないのかと調べてみると、日光に「逆柱」(さかばしら)というものがあるのを知った。
逆柱っていうのは、日光の東照宮などの建築物に見られる、わざと逆さに立てた柱のことである。 どうしてわざわざ逆さに立てるかというと、 あんまり完璧な建築物を人間ごときが建てると神の嫉妬を買うから、完璧すぎないように、わざと アラを作っておく、というものである。
聖書の中で、人間が神に近かずこうとバベルの塔を建てようとして神の怒りを買い、人々の言葉が乱れ通じなくなった話を思い出す。
また「美人薄命」という言葉があるが、神は完璧な美に対しても妬むのだろうか、だとすると、アラッ? ぐらいがちょうどよいかもね。
さらに、競馬の世界では、圧倒的な勝利を収めた馬は「競馬の神様」の嫉妬を買うのか短命なのだそうです。「強すぎた名馬たち」( 渡辺敬一郎著)という本によると、才能ある馬は短い栄光の直後に世を去るので遺伝子を残さず、その速さ、強さは語り草にはなっても、やがてその名は時代とともに忘れ去られていくサダメなのです。
結局本当に才能ある馬で、遺伝的意味合いにおいて歴史的名馬になるものは稀少だそうである。
また人間の世界で、私が「神のジェラシ−」というものをウスウスに感じた出来事というものがあります。
そしてその栄光の出来事と引き換えに引き続いて起こったことを想起すれば、ある人々にはナルホドと思っていただけるかもしれませんが、ほとんどナニヌカスカと思って頂いて結構です。
つまり駒大苫小牧高校の甲子園夏の大会二年連続決勝進出、関東学院大学大学ラグビ−部大学選手権二連覇などです。偉業というのは、とても危険なのです。
人間の徳にもかかわることですが、誇らんとする人間の欲望の固まるところ、思いとは裏腹なことが起きることがよくあるのです。
人はその人が持つ本質的な「徳みたいなもの」相応のものしか誉(ほまれ)を受けられない、ということです。それ以上の栄誉を得ようとしても、結局はその手の平からすり抜けてしまう。
社会的地位を昇れば昇るほど信と誉れとを失っていく人は数多くいますよね。
人はうぬぼれやすく自慢したがり、自画自賛に酔ったりしがちなので、そういう物事がとっても「上手」に出来た時など、「神に栄光を帰す」などという信仰心まではなくとも、「ジョ−ズ ジョ−ズ! スターワォ−ズ ハリ−ポッタ−」などと、軽いギャグで自分を褒めてあげるぐらいがちょうど良いのです。

旧くは、完全無欠をうたわれたタイタニック号の沈没という出来事もありましたが、人は「絶対に」とか、「完璧に」とか、「史上最高」などというようなことはあまり軽々しく口に出さない方が賢いのかもしれない。
たといそれが独り言であっても、どこかでそれを聞いている「妬む神」がいて、ちょっとした悪戯でもしたくなるのではないか、と思ったりもするのです。悪戯する神となると、柳田国男の「遠野物語」に登場する「座敷童」(ザシキワラシ)や「神隠し」などを思い起こします。
「不完全主義」というのは奇妙な言葉ですが、人に迷惑をかけない限りでは、意外と賢い人間のあり方、つまり「主義」として成り立ち得る生き方、のように思いますが、いかがでしょう。