昔、経済学では、所得、物価、利子、賃金水準など経済変数により経済的パフォ−マンスを考ええばよかたが、最近の経済理論では、「期待」やその前提となる「情報」など経済変数といえないものも経済理論に組み込まれており、サボっているうちに学問はどんどん進化しているんだと、感心してしまう。
そして、「情報の非対称性」ということが経済学上の一つの問題になっていることを知った。
単純にいうと、モノを作る側はそのモノの真の価値を知っているが、それを購入する側はよく知らないという、売り手と買い手の間に情報の偏り、つまり「情報の非対称性」が存在する時、市場は正しく機能しないという問題である。
そして、「情報の非対称性」とそれによって生じる「情報のコスト」と合わせて考えると、今まで日米構造会議(1989年)などでヤリダマにあがった日本的な制度や構造はむしろ効率的な理にかなった制度である、ということがわかるのだ。

ところで「情報の非対称性」はなにも特殊ではなく普通におこることだが、それが生み出す問題には大きな幅が存在する。古本、中古パソコン、中古車、などから、教育サ−ビスや福祉サ−ビス、そして医療や国防などに至っては、この問題は深刻度を増していく。
そこで、「情報の非対称性」を緩和するための様々な仕掛けが社会的にも考案されるようになった
特に医療において、情報は医者に偏っており、重症なので手術が必要とか、生死がかっているので先端医療が必要、などといわれてたら、いかに高額な治療費でも払わざるを得なくなるため、「インフォ−ムド コンセント」などの意識が高まっている。
我々は、医者が保険医療制度の下で、診察から投薬、注射から手術に至るまでそれぞれの行為に点数が決まっていて、医者が「点数稼ぎ」で治療を行いうる立場であることは知っている。医者の「点数稼ぎ」つまり金もうけのために手術をうけさせられることもあるし、医者はあつかった症例によっては箔がつくという別の意味での「点数稼ぎ」だってありうる。
それと医療の情報開示で思うことは、診察を受けるときにカルテを覗き込むと、とてつもなく文字が分かりにくいし、日本語のようでもありドイツ語のようでもありタガログ語のようでもあり、要するにわざわざ患者が覗いてもわからないように書いてあるとしか思えない。
もしも「インフォ−ムド コンセント」が「カルテの開示」まで徹底するなら、「カルテ開示」の付帯条件として、「正しく分かりやすい日本語で、楷書で書くこと」を条件にしてもらいたいですね。
さて、日米構造協議で外国企業の参入を妨げているとヤリダマに上がったのがケイレツつまり「系列」である。
たとえばトヨタとその系列の部品製造会社には絶妙な協力関係があって、車体が製造ラインを流れる過程で必要な部品が必要な量だけ揃えられていくというスッゴイ方式、通称「カンバン方式」、英語では「ジャスト・イン・タイム・システム」というものが確立している。
トヨタの品質を保証しているのが、まさにケイレツ会社とのこうした絶大な信頼関係なのである
学生時代にホテルの厨房で皿洗いをした時に、複数の料理人たちが違った食材を異なる時間で作り始め、同じタイミングで盛り付けされ、そして、一番おいしい状態で客に運ばれていく、その組織的な絶妙さに感動したが、トヨタの「カンバン方式」はそうしたことを生産ライン全体でやっているのだ、と思う。
もっとも車は一番オイシイ時に出荷する必要はないが、ラインも止めず、部品在庫のコストもかけない「ジャスト イン」は、おいしい料理つくりと共通している感じがする。
ところで、アメリカの自動車会社の部品調達は、基本的には入札である。それも国内ばかりではなく外国企業からの入札もある。
公正な入札だとしたら、安い費用で部品を調達できて、効率がよさそうであるが、部品会社との関係は1回限りを建前として、それだけ悪い品質の部品をつかませられることも可能性としては高い。
一括発注の部品の在庫管理コストもかかるし、トラブルもあり、むしろ効率が悪いのではないかと思う。
もちろんその分、取引の公正を損なわないように、メ−カ−と部品会社との間にはあらゆる場面を想定した一冊の書物にもならんとする契約書が取り交わされ、それを守っているのが司法の力である。
日本企業の象徴と見られる、「系列」システムはメーカ−の側から部品会社のもつ「情報の非対称性」を信頼によって緩和しようとする仕掛けであり、「入札」システムが契約とそれに反した場合に司法の力より守られるとはいえ、「系列」システムの方が長期的には効率的な制度であるように思う
部品会社の方でも、なんとかメ−カ−の信頼に応えようとするからだ。こう考えると消費者から見た場合の「ブランド」の意味もよく理解できる。
要するに消費者の選考がケイレツ化するのが「信頼のブランド」なのだ。一旦確立した「ブランド」は、消費者の商品についての情報コストを不要とする。消費者としては、聞いたことのない会社の商品は優れたも見えてもすぐには手がでず、結局、他の商品の間をさまようという「情報コスト」をかける羽目に陥ってしまう。
それに対してグッチのバッグは長持ちするとか、ヴィトンのス−ツケ−スは100年持つなど、長年の消費者の経験から確立された情報があれば、少々高くても手がでやすい。
セレブになると扱っている商品の信頼関係を元に、行きつけの店までができあがる。(ちなみに、私の行きつけの店は「マルキョ−」と「サニ−」です。)
企業側のブランド確立努力は結局、消費者の「情報コスト」をゼロにおさえる手助けをしているわけだ。
また、人材調達(採用)を考えると、会社は試験や面接で学生を見抜く努力をするが、実際には採用しなくては本当のことはわからないし、それほどの「情報コスト」をかけられないならば、企業はとりあえず「学歴」という情報にたよる傾向が生まれる。
「学歴偏重」というのは、「情報コスト」を抑えつつバラツキの少ない人材を確保する方法で、この場合、学歴もブランドと同じような役割を果たすことになる。

最後に、「情報の非対称」をなくすには生産側が生産の過程を見せる、もしくは、いっそのこと生産の過程に参加するということも行われている
消費者が細かいところまで注文を出してモノ作りを行えば、ムダなものを省きコストも抑えることができる。そいういうことが今日のIT社会では可能になっている。
今、学校などにおかれているDELLのコンピュ−タなどは、注文があって初めて製造される。それも注文に沿って必要な機能のみが取り付けられ、しかも生産側も在庫費用など不要なの価格をおさえることができる。
こういう方式を最近「兵站方式」といってあまりに味気ない言葉だが、例えば絵本を作るときに、娘が作ったスト−リ-で実名入りの、世界でたった一つの絵本を作ってくれ、などという注文に応じて制作すると、独自の夢やファンタジ−も形にすることができるのだ。
IT社会はそうした意味での生産(情報)にアクセズすることで「情報の対称化」を可能にする社会なのだ
最近、作詞家・阿久悠氏の生涯を辿るテレビ番組を見ていて、テレビ局みずからがアイドルを作ろうという意図で「スタ−誕生」という番組が生まれたことを知った。
そして「スタ−誕生」は、プロの厳しい評価までも含めアイドル誕生の全プロセズを完全にガラス張りにした、いわば「オ−ディション番組」の先駆けとなったのである。
番組では、プロの審査員の点数も一般の審査員の点数も公平に加算され、プロの評価では落ちても一般人気で票を獲得しアイドルになったものもある。その代表がピンクレディ−であり、それだけ「我々のアイドル」という意識さえ涵養されるかもしれない、とは思った。
ただしこの場合、一般人が素材(人材)選びに参加したにせよ、それ以後このアイドルをどう売り出すかは、プロダクションや作詞家の阿久悠氏や作曲家の都倉俊一が決めるのであるから、あくまでもアイドルのプロデュ−スには一般人は除外されている
ところが、最近のネット社会では、たとえバ−チャルであれ、アイドルの性格付けやファッションや髪型まで、一般参加型のネットアイドルが生み出されているというから、オラさ たまげだ〜。