海老名弾正と熊本バンド


1945年8月6日広島に、3日後に長崎に原爆が投下され、1950年時点で合計約30万人の人々が亡くなった。
大量殺戮が起きた場合には、あまりにも多い死者をマス(塊り)としてとらえがちであるが、一人一人が、この時この場所にいたという個々の事情があってのことだ。
そんなこと広島や長崎の爆心地に数多く立つ慰霊碑を見て歩けば充分に分かることではある。 長崎でいうと、朝鮮人犠牲者追悼碑、建設労働者職人慰霊碑、電気通信技術者慰霊碑、国鉄原爆死没者慰霊碑、長崎新聞少年慰霊碑、などの石碑をみて歩けば、そこに様々な人々の運命が重なり合っていることが見て通せるのである。
しかし私が個々の被爆者のことを妙に意識したのは、「二重被爆」ということを知ってからである。
つまり広島と3日後の長崎の両方で被爆したという人がいたという事実なのだ。この事実自体が驚きなのであるが、さらに驚いたのはそうした二重被爆の人々の数がなんと百人を超えていたということである。
考えてみれば、広島と長崎は日本でも有数の軍都であり、まさにそれこそが原爆投下のタ−ゲットになった理由なのであるが、広島で軍関係の仕事した人が、連絡や輸送目的で、瀬戸内海から下関を経由して同じ軍都・長崎に向かったとしてもそう不思議なことではない。
ドキュメンタリ−ともなったケ−スは、広島で被爆した男性で当時長崎市の三菱重工業造船部の技師をしていた。1945年5月から3ヶ月の予定で、郷里の長崎には妻と長男を残して、広島に単身赴任をしていた。
広島事業所に向かった男性は、江波の電停で降りて歩き始めた所で被爆したのである。これが1度目の被爆であるが、応急処置をして、焼け野原と化した広島をあとに、男性ら3人は8月7日昼、広島の西にある己斐駅(現在の西広島駅)から列車で長崎に向かった。翌日8月9日、その男性は会社へ広島の報告へ出かけた時に、ピカッと来たのである。これが男性にとって、2度目の被爆となった。
被爆地は、人々の運命のいわば「バンデ−ジ・ポイント」(結集点/結束点)なのだ。人々は様々な運命の糸をたぐって「被爆」というポイントに向かい、それを不幸にも共有したのだ。
その中のいくつかの糸をほぐしてみた。

例えば原爆が落ちたとき、学校、病院、工場、捕虜収容所、刑務所などたくさんの設備や施設があったはずだ。まずは刑務所の囚人達の運命についてふれたい。なぜなら、長崎の爆心地・平和公園で知ったことは、右手の指を空に向けた平和記念像のあるその場所こそは長崎刑務所浦上刑務支所があった場所なのである。その囚人達はどうなったのだろうか。
長崎刑務所浦上支所は当然に全壊し、支所にいた副島はじめ看守、職員、職員家族、囚人81名が即死した。がそこに運命の機微が作用した。
囚人約百名は三菱重工長崎造船所で働いていて難を逃れている。彼らは、長崎市衛生課の要請を受けて、5日間にわたって市民の死体収容作業に従事した。
ちばみに長崎の被爆については、戊辰戦争において薩長側に武器を売ったグラバ−の子供である倉場富三郎が長崎造船所を見渡せる南山手の自宅(グラバ−邸)にいたが、長崎被爆後の日本の敗戦が決定的になるにつれ精神不安定に陥り縊死している。
一方、広島刑務所は、原子爆弾投下とともに全壊したのだが、囚人の大半は爆心地からはなれた光海軍工廠その他に出役していたので、刑務所で即死したのは看守、職員5名、囚人12名だけであった。その後、光海軍工廠などから囚人たちが看守とともに引き揚げてきたが、獄舎が消失していたので構内の空地に集め、周囲に縄をしばって夜を過ごした。その間、重傷者がつぎつぎと死亡し、遺体に重油をそそいで焼いた。

原爆が落ちたときそこに中国や朝鮮からの出稼ぎや強制連行された人々、連合国の捕虜など外国籍の人もいたはずだが、どうなったのか。特に広島には多くの韓国人がいた。
韓国慶尚南道の北のはずれにハプチョンという「韓国のヒロシマ村」と呼ばれる一寒村がある。
非常におおまかな数字をあげると、敗戦の時点で日本国内には236万5千人余の韓国人がおり、そのうち8万1千862人が広島県内に居住いたとされ、4万4千から7万の韓国人が被爆したとされ、その半数近くが帰国している。
そしてハプチョン郡内には約5千人という異常に高い被爆者の数の比率を示している。
かくも多くのハプチョン出身者がどうして広島で被爆することになったのか。1923年の関東大震災で多くの韓国人が殺され、関東在留の韓国人は関西方面から西へと避難したという動きの中、移民の数は減るどころか増えていっているのである。セにハラは変えられぬ事情の中農民は、なけなしの家財道具を売り払って日本へむかっている。
ハプチョンでは、1920年頃から広島に向かう人々の群れが起きているのである。おそらく同郷人のだれかがよびよせたのであろう。このころ広島において、日本製鋼所広島工場が設立され、呉海軍工廠では戦艦長門が竣工するなど軍都広島への道を着々と歩みはじめている。軍都広島は、出稼ぎにきた韓国人に対して衣食住だけは保障した。ハプチョン出身者にとって、借金をし田畑を売ってでも広島へ辿りつけさえすれば何とかなる、という気持ちがあったのである。
この時、広島にやってきたハプチョンの人々にとって、軍都広島が原子爆弾の投下目標として最もふさわしい地であったなどということは思いもよらなかったであろう。

ところで広島の原爆ド−ムとしられている建物は世界遺産として多くの外国人観光客がここを訪れている。実は、原爆ド−ムはもともと広島物産館として利用され、興味深い歴史を秘めている。
それは、第一次世界大戦の捕虜となったドイツ兵が宇品港(広島港)から8キロの海上に浮かぶ似島に送られていたのであるが、彼らは日本人にバ−ムク−ヘンやホットドックのつくりかたを教え、それがこの物産館に展示されたのである。
究極的に原爆は、ドイツとの戦いのためにアメリカのマンハッタン計画の中で開発されたものだが、その原爆のシンボルと ドイツとはこの時、広島の地で少しばかり交差することになった。
広島原爆ド−ムは、いわば被爆という「バンテ−ジ・ポイント」の目に見えるシンボルともいえる。
実は、この原爆ド−ムよりもメッセ−ジ性が強い廃墟として保存されそうになったのが、長崎の浦上天主堂である。
あまり注目されることは少ないが、浦上天主堂の正面左右に配置された聖ヨハネ像、聖マリヤ像の指は落ち鼻は欠けているし、植え込みに並ぶ聖人の石像はどれも熱戦で黒く黒こげている。またそばを流れる川の脇には、旧天主堂の鐘楼ド−ムが半分埋もれたまま頭をのぞかせている。
 しかしこの廃墟こそは広島の原爆ド−ムと並ぶ、否それ以上に地球上で最も世紀末を表す絵ではなかったのか。これ以上の人類の罪業を表す絵を誰が描けるのか。想像するに、

くだけ落ちた壁、熱線にとけた聖杯、辛うじて不規則なスト−ン・サ−クルのように屹立する赤レンガの柱の隙間からに射し込む陽の光の束が、散乱したステンドグラスを照らし、反射し輝いている。陽が上るにつれ、廃墟の暗がりからキリストを抱く聖母マリアの像が浮かび上がった。聖母マリアの頬は熱を帯びたのか黒ずんでいるのが見える。

実は戦後、浦上天主堂の廃墟を保存しようという要求が市民の中から高まった。当時の長崎市長が姉妹都市提携のためにミシシッピ・セントポ−ル市を訪れた直後に、全体としての廃墟保存のト−ンが落ちている。
カトリック系の多いセントロ−ル市からみると、原爆の罪をカトリック教会の被爆という形で世界に訴えかけるような絵は残してほしくはなかったのではないか、と推測した最近の週刊誌記事もあった。
かくして浦上天主堂の廃墟は1958年に完全に撤去され、翌年再建された。そしてそれがもつ黙示録的メッセ−ジ性のよすがは完全に人類から消滅した。

旧浦上天主堂という廃墟が、いつしか世界平和の「バンテ−ジ・ポイント」となる可能性は、この時失われた。