作詞家の故郷


 世俗の世界に権力を築き上げた者と心の内に王国を築いた者、両者の相克は時として歴史の舞台に名場面を提供してきた。
豊臣秀吉と千利休、織田信長と高山右近などの相克は火花散らす心理劇として人口に膾炙している。
 千利休が茶の世界に、高山右近がキリスト教信仰の世界に築いた内なる高みは、世俗の権力者を凌駕するものであった、まさにそのこと故に悲劇を胚胎していく。
権力者は、けして自分の思い通りにはならない従者に対して隠し持った権力の刀を閃かせる。一方、従者はいかなる矜持をもって権力者の刃に応えたのか、応え得たのか、というのはシェ−クスピア劇さながらの心理劇はないか、と思う。
百姓出で黄金にめがなく茶室さえも黄金でつくった秀吉に、堺商人でおつきとなった千利休は、茶にかこつけては秀吉を田舎者あつかいし溜飲をさげていた。
たとえば利休が大切にしていた朝顔を秀吉が見たいといったとき、秀吉が招待されて利休のところへ行ってみると、花は皆むしりとられていてひとつもない。憤然として席についたが、見ると見事な朝顔がひとつだけいけられていた。
利休は何事も派手好みの秀吉に収斂された美の極意を伝えようとしたのだろう。
しかし後に千利休は権力者・秀吉に結局は切腹を申し付けられるのである。

戦国の武将・高山右近は、26歳の時に人生最大の危機に直面する。高山が仕える領主荒木村重が織田信長への謀反をおこしたのである。高山は荒木の信長への謀反に反対するものの、最終的には高山は直接の主君である荒木に妻と子供を人質として差し出し忠誠を誓う。
それを知った織田信長はここで高山に挑戦をしかけてくる。高山配下の高槻領内の神父を捕らえ、もしも高山が荒木に従うならば神父達を殺害すると伝える。 この時、高山は信仰上の挑戦ばかりではなく、主君への忠義や人質家族の危機などあらゆる精神的な確執の中から、彼自身の良心に従う決心をする。
頭を剃り領地と城を明け渡し、従者をもつけずに信長の前にでたのである。この政治の世界との決別を示すこの行為が、高山を思いもよらぬ結果へと導くことになる。
彼は信長に許され、高槻の領土を保障され、また荒木にさしだした人質も命が助けられるのである。
人生最大の危機を高山は良心の声に耳を傾けることによって乗り越えたのである。
この危機を通じて高山は新しい信仰の力を得、新しい人となる。
羽柴秀吉からも信任を得た高山は播磨国明石に新たに領地を与えられたがバテレン追放令が発せられるにおよび秀吉の挑戦をうけることになった。
高山は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び世間を驚かせた。いかに信仰を守るとはいえ、流民となる覚悟で領地・領民すべてを捨ててしまう王様が世界中どこにいるでしょうか。
(その点、わが黒田孝高はあっさり棄教しているので常人の範疇です。)
徳川政権下で加賀前田家の下で暮らしていた高山は、1614年キリシタン追放令により、マニラに追放され翌年当地で亡くなっている。

私が住む福岡に「黒田節」にまつわる心理劇の話が伝えられている。
戦国の武将・福島正則と黒田武士・母里太兵衛の名槍「日本号」をめぐる心の格闘である。
 母里太兵衛は黒田長政より使いにだされ、豊臣秀吉配下の実力者・福島正則に面会した。母里は、福島正則が酒豪であることはよくよく聞かされており、使者としての役割を果たすために酒をすすめられてもことわる腹づもりであった。
しかし福島正則は母里に、この大杯で一度に飲みほすならば欲しいものは何でも与えるという。母里は何度も断ったが、福島に散々黒田武士の意気をなじられ、ついに意を決する。そして黒田家臣の威信をかけて見事大杯を飲み干したのである。
見回せばその部屋には名槍「日本号」がかけられていた。 「日本号」は元々は正親町天皇が所有していたもので信長・秀吉の手をへて福島正則があずかったものであった。大杯を干した母里は、じんわりと福島正則をにらみつけ、その「日本号」を要求したのである。狼狽の色さえ浮かべる福島正則。
母里は、武士に二言はありますまいとばかりに「日本号」をうけとったのである。
名槍を呑み取った豪傑・母里太兵衛の話は、福岡城内でまたたくまに広がった。
そして昭和の時代に今様風の音がつけられた「黒田節」によって一般に広く知られるようになった。

「酒は飲め飲め飲むならば、日の本一のこの槍を、飲みとるほどに飲むならば、これぞまことの黒田武士」

ところで母里太兵衛は、黒田24騎に名をつらね、さらには精鋭である黒田八虎にも数えられる大変勇猛な武将であった。出身である山陰には母里という地名が残っている。
母里の勇猛さを物語るエピソ−ドがある。関が原の戦いで石田三成側に人質となった細川忠興の妻ガラシアが大阪城入城を拒否して自害した話は有名であるが、同じく家康側についた黒田如水、長政父子のそれぞれの夫人が、細川屋敷の騒動にまぎれて、西軍の警戒線を突破し脱出した。
この時大坂屋敷留守番役は母里太兵衛でこの両黒田夫人脱出を演出するのである。母里が両夫人をそれぞれ俵につつみ籠にいれ天秤で担いで運びだしたという。それを小船で待ちうけ最終的に豊前中津に逃がしたのが大坂の商人納屋小左衛門であった。
(なんだか絨毯にくるまれてシ−ザ−の元に届けられたクレオパトラみたいですね)
黒田武士の誇りと福島正則の武将としての面子が火花を散らした名槍「日本号」の話は、酒豪同士の意地のぶつかりあいだけではおさまりきれない心理劇でもあった。
福島は、母が豊臣秀吉の叔母だったためその縁から幼少より秀吉に仕えたが、秀吉の出自からいって福島はけして高い身分ではない。一方、黒田氏は佐々木源氏の流れに属し、秀吉の名参謀・黒田官兵衛を擁した名族の出である。
名槍「日本号」の話は、福島氏に仕える立場の名族・黒田氏の代表「母里」の心意気の一端とみることもできる。そして 名槍「日本号」をめぐる福島氏のツ−コンと黒田氏のツ−カイは、以上の背景からも浮かび上がってくる。

豊臣氏滅亡後、福島正則は広島城の無断修復を口実に所領を没収された。
このとき福島は将軍・徳川秀忠の面前で、「関が原では徳川のために犬馬の労をとって働いたのに、この仕打ちは情けない」といって涙を流したという。もう、愚者 愚者。