作詞家の故郷


スペインのアンダルシア地方に、「ハポン」を姓とする一群の人々が住んでいる。 「ハポン」姓の人々は日本のサムライの子孫といわれるが、それでは一体なぜ。
1618年に派遣された支倉常長率いる慶長遣欧使節と関係が深いらしい。私がこのハポンの存在を知ったのはごく最近のテレビ番組である、スペインのハポン姓の人々の存在に気づいて報告したのは、明治の初めの榎本武揚使節であった。
五稜郭の戦いに敗れた旧幕臣の榎本武揚はその後、明治政府に仕えて異例の出世をするが、外務大臣に就任すると初の移民課を設置した。海外雄飛に熱弁をふるい自らも投資してメキシコに6万5千町歩の土地を買い込んだ。そして 1897年殖民団が横浜から送り出される。
足尾鉱毒事件の被害者達に同情を寄せた榎本の立場は、政府の政策とは相容れずに農商務大臣を更迭された。そのためか、「ハポン」姓の人々の存在は、表にでることはなかった。
1996年、ミス・スペインにハポン姓の女性がなったことにより、スペインの「ハポン」が日本のマスコミでとりあげられるようになったのである。
私は支倉常長の肖像の沈鬱さが心に残っていたのだが、アンダルシア地方の「ハポン」達ははテレビで見る限りとても陽気で気さくに見える。その陰と陽のコントラストがおかしい。支倉の魂が今も生きて、天よりアンダルシアのハポン姓の広がりを見て何を思うのかと想像してみると、やっぱりおかしい。
私は、支倉常長の後半生は「オレの人生は一体何だったのか」と自問を繰り返す日々ではなかったかと思うのだが、支倉使節がアンダルシア地方に蒔いた「ハポン」姓の人々は、そうした支倉の孤独で沈鬱な自問自答とはまったく裏腹に、底抜けに人生を楽しんでいるかのように映ったからだ。

1618年、伊達政宗は宣教師のソテロとともに支倉常長をローマに送ることを命じた。一行は仙台領の月の浦(宮城県石巻市)から、太平洋・大西洋を日本人で初めて横断し、メキシコ、スペイン、ローマへと渡る。この大航海の目的はメキシコとの通商と宣教師の派遣をスペイン国王とローマ教皇に要請することであった。
彼らがスペインで約一ヶ月を過ごしたセヴィリアは、マゼランが世界周航へと出港した港町である。セヴィリアはさすがにスペイン第4の都市だけあって、町並みはとても華やかで活気がある。
旧市街には、スペイン最大の大聖堂であるカテドラルとセヴィリアのシンボルヒラルダの塔が立っている
マドリッドではスペイン国王フェリペ3世に謁見を賜り、ここで支倉常長は洗礼を受けバルセロナに滞在後ローマへと向かっている。 彼らはローマで熱狂的な歓迎を受け、教皇パウロ5世に謁見し、伊達政宗の手紙を渡している。
しかし彼らがようやく帰国した1620年は、日本では全国的にキリスト教が禁止され、信者たちは次々と処刑されるという厳しい時代となっていた。
日本ではしだいにキリシタン弾圧が厳しくなってきているという情報が、教皇のもとに届いており交易を約する返書をすら得られず7年後に帰国している。しかしキリシタンとなった彼らの多くは招かれざる帰国者であり、仙台藩にとってもやっかいものになっていく。
帰国した支倉らは、以後身を潜めて生きなければならなくなったわけだ。
仙台市、広瀬川の橋のたもとには、殉教者の石碑が建っており、東北キリシタン弾圧の凄まじさを物語っている。 仙台に帰った支倉は、運命に裏切られた者として、以後自分の生をどうまとめたらいいのか、思い悩んだにちがいない。

1614年慶長遣欧使節が日本を出発、スペインのサン・ルーカルに到着する。大西洋に面した港町で一行はここからグアダルキビル川を遡ってアンダルシア地方の大都市セヴィリアの近くコリア・デル・リオという町で船を下りる。つまりこの町は一行のスペイン上陸の地なのだ。
ところが一行26人(資料によって異なる)のうち6〜9人はどうやら最初に上陸したコリア・デル・リオに留まり、そのまま永住したらしい。
  地元の教会の古い時代の洗礼台帳にはハポン姓は見当たらず、 ちょうど遣欧使節団がスペインを訪問した後の時代からハポン姓が出現した。 現在同市には、その姓を持つ人の総数は648人を数えている。また、支倉常長一行の血をひくスペイン人の数は1万人以上と推測されている。
コリア市のある教会の洗礼台帳にもハポン姓の娘を洗礼したことが記載されている。
ところで、これからローマ法王にも謁見しようというおそらく使命感に溢れた誇り高きサムライたちは、帰国してキリスト教を布教しようとした人々にちがいないのだが、一体何が起こったのか、と考えさせられる。
  カトリック信者だった従者は、もともとスペインに永住するつもりだったのか、スペインのセニョリータの魅力にまいってしまったのだろうか。
  ここで断っておきたいのは支倉常長使節はそれほどりっぱな一団ではない、ということである。
幕府の正使ではないということ、つまり非公式の使節であり、もっといえば「偽の使節」ともいえる。
外国で軽くあしらわれてもおかしくはない。ということはある意味で、決められた期限までにそれほど強く帰国を迫られるようにものではないという見方もできる。
支倉自身それほど高い身分ではなく、苗字が無い者も乗船していた。洗礼のために父親の苗字が必要になり祖国日本を名ハポンっを名乗ったと考えられないことではない。
地元の郷土史家は、現地に残った使節団の一員が祖国ハポンを名乗り始めたに違いないと言う。あるいは洗礼時に父親の名前を入れて、ハセクラ・デ・ハポンと名乗ったが、日本人の名前は難しいので、自然と最後のハポンだけが残った可能性もある。
稲作の盛んなスペインでは主流はモミをばらばらと撒き散らす方法をとるが、この地域だけは伝統的に苗床を作る日本式の方法をとっている。
サッカー選手のヘスス・サンチェス・ハポンや 27年間サッカーの審判を務めたホセ・ハポン・セビリア氏は城選手が所属していたバリャドリードとレアルマドリードの試合の主審を務めた。
コリア市にはSendaiと名がつくカフェテリアがあり、そこにハポン姓の人が集まる。
町役場の公式サイトには、ハポン姓のルーツとして支倉常長一行のことが書いてあるし、コリア・デル・リオの町には支倉常長の上陸を記念して、彼の銅像がグワダルキビル河の河川敷公園の真ん中にある。

ところでフランシスコ・ザビエルは1506年、スペインバスク地方のパンプローナに近いザビエル城で地方貴族の家に育った。
バスク地方に生まれたフランシスコ・ザビエルが日本布教を志したその時、アンダルシア地方の「ハポン」姓の人々の種は蒔かれたといってもよい。
ザビエルはバスク語で「新しい家」の意味だそうだが、「ハポン」の家がザビエルの国に現れるとは、歴史とはめぐりめぐって奇なものであるという思いを新にする。

アンダルシアの片隅に咲くハポンの群れ、どうせなら、ハポン姓の大統領の登場を期待したい。
その時きっと、支倉常長の魂も快哉を叫ぶに違いない。