1972年2月23日にニクソン大統領が訪中が実現し、米中の国交が正常化した。
米中接近は、共産主義諸国間の覇権争いによる中ソ間の関係悪化をアメリカは見逃さず、米中が手を組むことによってソ連封じ込めを行ったもの、と思っていたが、最近明らかにされたニクソン訪中の前年に行われた周恩来とキッシンジャ−国務長官の会談内容は、長引くベトナム戦争に苦慮するアメリカが中国に、北ベトナム支援の手を控えるように願ったこと、その代わりに中国側が主張する「一つの中国原則」をほぼ支持することを表明した、というものだった。
(この「キッシンジャ−の呪縛」は、中国・台湾問題に長い影を落とすことになる。)
しかしアメリカと中国は、1950年朝鮮戦争の時には互いに介入し矛先交えた仇敵であり、そう簡単にあゆみよれる関係ではなかった、はずだ。

この強張った米中関係に風穴をあけたのが、意外なことに卓球であった。
1971年世界卓球選手権名古屋大会で、中国選手団のバスにアメリカ選手が誤って乗り込んできたことがきっかけだった。当時、中国には「アメリカ人とは話しをしてもいけない」という規律があったのだが、世界チャンピオン荘則棟氏は、チームメートからも反対されたにもかかわらず、アメリカ選手に話しかけたのだ。
それがすべての始まりだった。
翌年 それまで国交のなかったアメリカに中国卓球選手団が招かれたのである。
このアメリカ選手団に声をかけた世界チャンピオン荘則棟は、世界選手権3連覇の中国の「英雄の中の英雄」であり、スポ−ツ大臣にまでなった人物であるが、文化大革命の折には毛沢東夫人の江青に近かったという理由で追放され、地方の(草の根)卓球チ−ムのコ−チになった。
(私は中学校時代に、荘則棟が処刑されたという噂を聞きました。)
この荘則棟が10代の半ば、映画「日本の卓球」を繰り返し見て師とあおいだのが、その映画に登場する1950年代後半の日本卓球全盛期の世界チャンピオン荻村伊智朗氏であった
荻村伊智朗は中学時代より外交官をめざしていたが、都立西高で卓球を始めその魔力に取りつかれる。その後、都立大学にすすむが、練習環境にはまったく恵まれずに、後に有望選手のいた日本大学に転学する。
荻村がすごいのは卓球を始めたのが高校で、しかもその練習環境はほとんど貧弱であったにも関わらず、自身の工夫と努力でわずか10年足らずの間で世界チャンピオンにのぼりつめたことだ。
荻村は、弱い相手とするときには必ず自分の打ったタマが返ってくることを想定して、次の動きをイメ−ジしながら練習したという。
荻村のそうした工夫によって生み出された卓球理論は現在でも様々な卓球の指南書や専門書によって知ることができる。
荻村は1954年初出場ながら世界チャンピオンに輝き1956年には東京で二度目のチャンピオンになった。その後国際卓球連盟会長をつとめ、「ミスタ−卓球」の呼称がとてもよく似合う人物である。
荻村が指導したのはスエ−デンをはじめ20数カ国、育てた世界チャンピオンは10名を超えた。
そして荻村の若き日に描いた外交官の夢は「ピンポン外交」として生きていくのである。 1991年の世界卓球選手権千葉大会における北朝鮮・韓国の南北統一チ−ムの結成は荻村なしでは実現することはできなかった。
また、荻村が日本チ−ム団を率いて中国を訪問した際に、荻村は周恩来に中国がこれから卓球に力をいれていくために力を貸して欲しい旨を告げられる。
その際に、周恩来はリ−ダ−荻村に少し意外なことを語っている
中国には早くから国家的にスポ−ツを振興しようという政策があったのだが、その時ネックとなったのが婦人の間で広がっていた「纏足」という習慣である。纏足とは足を小さな頃から強く縛って発育させないようにするもので、小さな足がが美しい(可愛い)とされた。
纏足は女性を家に縛り付けておこうという男性側の都合でできたとんでもない悪習で、それが中国人の体格の悪さの原因ともなっている。卓球を広めていくことはこの纏足(による体力不足)をやめさせることに繋がるというものであった。
また、中国人はアヘン戦争に負けて以来、外国人に劣等感を持っている。日本が卓球で世界一となり、外国に対する劣等感をはねかかえしたのにならい、中国も卓球というスポ−ツで自信を回復したい。
さらに、中国は貧しい国なので、お金のかかるスポ−ツを採用する余裕はない、しかし卓球台ならば自給自足で何台でもつくれるので、卓球をスポ−ツ振興のために採用する、という内容であった。
(ちなみに中国で編み出された前陣速攻型は、一人あたりに使える空間が狭いために生み出されたものだと思う。)
当時20代だった荻村は、自分の胸を打ち明けるように語る周恩来の言葉を心に刻んだ。
そして、荻村伊智朗は、日中国交回復にも繋がる「ピンポン外交」に貢献したばかりではなく、卓球のイメ−ジの一新をはかった。
きっかけは「笑っていいとも」のタモリの「卓球は暗い」「卓球選手はネクラ」「卓球は文化部」などの発言であった。
荻村はこのままでは卓球人気は凋落すると危機感を抱き、ユニフォ−ム、卓球台、ピンポンの色すべてを明るく斬新なものにかえていった。タモリには卓球の現状のイメ−ジを率直に指摘してくれたと感謝している。

卓球というスポ−ツには不思議と政治がからむ、同時に卓球史はシリアスな現代史でもある
反面、卓球は草の根レベルでの国際交流・市民交流の舞台を提供している。山形県河北町ではスリッパ卓球世界選手権が行われ、大分県別府でも温泉卓球選手権が開かれている。
浴衣・スリッパをユニホ−ムにするのか、とおもっていたら、河北町ではスリッパをラケットにするらしい
参加資格は卓球がヘタな人だそうだ。とはいっても日の丸ハチマキ姿のファイタ−も出現し、別府温泉では浴衣姿も露なソ−ゼツな戦いが繰り広げられるらしい。
それをセクシ−見るか、はたまたヒワイと見るかは、選手の必死さと、見る側のセンスによる。