海老名弾正と熊本バンド


聖書は神の人類に対する救済の書(福音)の書である、ということは日本人には容易には受け入れないものかもしれない。
人はときに罪を犯すけど、日々の反省で充分、お祓いとミソギ程度で浄められるし、すべては水に流そうという感覚、原罪とか救済とか何もそんなに深刻に受け止める必要などはない、ただしクリスマスなどお祭り気分の楽しい部分だけはとりいれましょうか、それが一般的な日本人の感覚であり、私も日本人でありますが故にそうした感覚を多分に共有するものです。
ただ高校がミッション系だったゆえに、通常よりも聖書に接する機会が多く一般の日本人よりも考えた、というのはある。聖書に現代科学ではありえないことが書いてあれば、ひとまずその部分をフィクションとして読んでおくのが一般的姿勢であるが、私の場合、思考がひと迂回する。
イエスを神または神の子としてプロデュ−スしようとする人達が聖書を書いたとして、信じさせるために誰がこんなへたくそなフィクションを書くだろうか、自分ならもっとうまくヤルだろうなどと思い、さらに嘘ならもっとましな嘘をつけとか、創作するならもっとスマ−トに創作しろ、などと考えるうちに結局、聖書が真実をありのままに伝えているように思えてくるのだ。それは「聖書のチカラ」という他はない。
これは信者であるせいで「初めに結論あり」なのではと問われるかもしれないが、信者になる前からそんな形で聖書を受け止めていたのだから、頭がユルイといわれればユルイのかもしれない。
科学と露骨に衝突する奇跡物語だけではなく、聖書のあらゆるエピソ−ドにそれが当てはまるのだ。
イエスが神でないとしたら、こんな言葉がでるはずもない、という場面はいくらでもある。通常の人間の思考(創作)から生まれ得る言葉ではないのだ。
ならばイエスは神か狂人かどちらかということになる。
例えば、イエスに頭から高価な香油をかけたなんとも無思慮・無遠慮な女性がいる。傍らの男が、その香油を貧乏人に与えたらどんなに人助けになるだろうと女をたしなめると、イエスは彼女は良きことをしたのだ、私の弔いの準備をしてくれたのだ、といって彼女の行為を称えるのである。
こんなこと誰がいい得ますか。
人間が考える神のイメ−ジといえば、弱きの味方だから、その男がいったように、香油を売って貧乏人に施せぐらいがせいぜいなのだ。またそう言わせた方が、神の子らしい宣伝にもなるし、一般受けもするものなのだ。
こんな言葉は人間の創作で思いつくことさえできないし、実際にイエスが神の子でなくしてどうして出るのか、と思ってしまうのである。
だいたい新約聖書の福音書には、神の子イエスが馬小屋で生まれたとか、大工であるとか、十字架にかかってむごたらしい死をむかえるとか、神の子の威厳を損なうことばかりが書き連ねてあり、およそ「権威付け」とか「神格化」とかいうものから逆行することばかりが書いてあるのである。
そんな瞬間に、反対に突然聖書のリアリティ−が迫ってきて、こんなん創作なんかじゃない、やっぱホンマの話なのだ、誰もこんなアホなフィクションつくらへん、と大阪弁で真実と受け取らざるをえなってくる。
また、イエスの復活劇などいかようにも華々しく粉飾できそうなのに、聖書はこの核心的出来事でさえも、感動的なぐらいに淡々と語っているのだ。
だいたい新約聖書出だしの「イエス・キリストの系図」のなんと起伏に富んだことか
系図の中にボアズという富豪もいればダビデという国王さえいる、なのに同じイエスの系図の中には、ラハブという売春婦も入っておれば、異邦人(モアブ人)ルツもはいっている。
ラハブを起点とすれば、エリコにいた売春婦(遊女)であった彼女が、たまたま城砦を攻めようとしたイスラエルの斥候(スパイ)を匿い助けたために神の祝福を受け、その血統から富豪ボアズや王ダビデが生まれイエスが誕生するという信じがたい血脈の展開なのだ。
しかし人間レベルで思考すると、こういう系図は神の系図としてマズイと判断し、書き換えや削除もしたくなるのが普通であろう。
特に日本人は血統を重んずる民族で、古代からの血の繋がりによって天皇がいまなお存在することが何よりのその証拠であるが、下克上の時代に大名などに成り上がったとしても自らを権威づけるためには、家系図の書き換えや売買などがいくらでも行われたくらいだ。
イエスの系図に見るそうしたアカラサマに、むしろ「神性」を感じるのは私だけでしょうか。
聖書には誰が見てもただならぬチカラがそれ以外にもたくさんある。そのひとつとしては「旧約聖書の預言の実現」としてイエス・キリストの生涯があるということである。イエス自身、聖書の預言の対応箇所を引き合いに出しながら、行動しているのが普通じゃない。
イエスの一家がベツレヘムからナザレに転住した際には「このことはナザレ人とよばれるという言葉が実現するためである」というように、つまりイエスは旧約聖書が自分という救世主(メサイヤ)について書かれていることを公言しているのだ。
こういうことをやる聖書に通じたエセ教祖がでる可能性は否定できないにしても、イエスが預言に応じて周囲の誰からも捨てられ、自ら十字架の死に迎えるというのだから、こういうのってアリ?または、こんなことって誰が創作します?
ところで聖書の預言は、モ−セやイザヤ・エレミヤなどの預言であるか、なんとイエスの時代から8世紀も前に溯るものさえある。そしてその膨大な預言ア−カイブと自分を「参照」させながら、イエスは自らを世に表しているのである。そういうのってアリ?
また預言とその実現に至るタイム・スパンの長さは、せっかちな日本人の感覚からみると、とうていはかりしれないものがある。別の言い方をすれば、救世主(メサイヤ)待望のなんと長かったことよ。

イエスは、キリストは民衆に神の国の到来をつげ、戒律を守り神の国の到来の準備万端であったパリサイ人・律法学者ら指導者階級への糾弾とを行っているのであるが、イエスの驚くべきことは、民衆が生きる「民衆知の世界」と律法学者の生きる「学問知の世界」との両方に通暁し、両者ともに見事に対応している点である。
それは次のような故郷の人々の驚きの言葉に代表される。
「この人は、この智恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか、この人は大工の子ではないか」
一般に知識には、文字の世界の知識である「学問知」と、文字以外の世界の知識である「民衆知」というものがある。 民衆は口承の世界に生きており、その経験の集積に培われた様々な知恵を保存している。たとえば病気になったらどの山に生えている草を食べたら癒されるなどである。
イエスは律法学者やパリサイ人に対しては、旧約聖書の言葉を駆使して権威あるもののごとく対抗し、民衆にたしては、「空の鳥を見よ、野の花を見よ」など生活のレベルで語りかけるのである。
また、「天国は良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである」というように「天国は○○のようなものである」にはじまる数々のたとえ話をもって、民衆知への働きかけるのである。
たとえ話にはその他、「岩の上に建てた家」、「放蕩息子のたとえ」、「良きサマリア人」、「迷子の羊」のたとえなど人口に膾炙したものが多い。
たとえ話はあくまでも「たとえ」であり直接神の国を語っていないのだが、何者をも拘束せず強要もしないが故に逆に人の心に強く響き、人を教化するチカラあるものばかりである。
しかし一方で、「聞く耳を持つものは聞け」「悟るものは悟れ」というイエスの人間の側への投げかけにも聞こえる。

ところで神が、目を留めた人間を教化しようとして行ったワザを二例ほど紹介したい。
ダビデ王がある罪を犯したときに、預言者がやってきて一人の男の話をしはじめる。それはたとえ話なのであるが、ダビデはそれとも知らず預言者の話を聞く。そしてダビデがそんなひどい男は殺してしてしまえと叫んだ時、預言者が最後にダビデに告げる。「その男とは あなたです」
一国の王・ダビデはグ−の音も出ないほどに心を射抜かれてしまう。
もうひとつの例は次の通り。アッシリアの首都ニネベに、神は預言者ヨナをつかわすが、アッシリアはユダヤを呑み込まんとする敵対する超大国である。
そこの民にヨナは神の預言を伝えるようにしむけられるが、ヨナはそれを拒絶するかのように神を避け、三日三晩大魚に飲み込まれるという異常体験もする。あんな奴らに誰が神の言葉を伝えるか、という気持ちだったろうが、そこで神の「実地教育」がはじまる。
ヨナが強い日差しを設ける為、植物(とうごま)を育てるが、神は虫を備えて一夜にして食物を枯らしてしまう。地団太踏んで悔しがるヨナに神がそっと話かかける。
「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜のいるこの大きな町ニネベを、私が惜しまないでいられようか」と。
こうしたエドはるみでさえもグーの音もでない実地・実物教育は、人知を超えた「神の叡智」という他はない。
人間の側でどんなに疑義をはさんでも、そんなもん超越する「聖書のチカラ」はここにも見出せる。