日本の企業はもともと、終身雇用に基ずく従業員の一家形成の場であり、従業員の条件や福利を考えて経営をする傾向があった。
それに対してアメリカの企業の目的は、株価をあげることが優先される、それが短期的に出来なければ経営陣は解任になるためである。従業員よりも株主の利益を考える傾向が強く、極論すれば企業は所有者(株主)の資産形成のハコとみられくもない。
以上のような一応の日米企業の比較は、少しずつ過去のものとなりつつあるのかもしれない。
日米構造会議で悪弊と日はされた「談合」は、あらかじめ入札価格をきめ、企業間で順に仕事がまわるようにしたものであるが、競争を排除した分価格が高くなり、税金のムダ使いが生じるなどとして、国内で批判にさらされているものである。
確かにこうした「共に利益に与る」システムは、少なくとも弱肉強食的考え方の否定の上に立つものであり、資本主義経済本来の考え方とは一線を画するものであろう。
しかし一面では「談合」は、日本社会の伝統的な「和」の精神の経済版といってよいものではある。
マックス・ウエ−バ−は、資本主義社会の精神的なバックボ−ンにキリスト教のカルビン主義があることを指摘したのであるが、資本主義の発端にカルビン主義があったとしても、激しい競争社会と貧富の差をもたらすこの資本主義が、キリスト教の一派の思想によってそれほど正当性を持ちうるとは、とうてい思えない。
資本主義が真に正当性を持ちえたのはむしろ19世紀にスペンサ−が唱えた「社会進化論」で、優れたものが残り劣者は淘汰されるという、ダ−ウインの進化論を無理やり社会に応用したものである。
そしてこの社会進化論こそは、弱肉強食が正当性をうる思想なのである。つまり起業家は罪の意識に悩まされることなく、競争相手を叩き潰すことができるようになった、というわけである。
いまだにアメリカの学校教育で、キリスト教とダ−ウイニズムが論争される中で、資本主義のバクボ−ンが二つの思想を背景としていることは、何か不思議な気がする。
日本で社会進化論を導入するにあたって大きな役割を果たしたのが、日本美術の保護者で有名なフェノロサである。
実はフェノロサの講義した「社会進化論」は、実は自由民権運動を対抗しようとした政府の隠れた意図があったのである。
フェノロサは、それまで大森貝塚発見で有名なモ−スと同じボストンに近いセ−ラムの出身で、同郷のモ−スの紹介によって東京大学に職を得たのである。
フェノロサは、ハ−バ−ド大学哲学科を首席卒業という逸材で、文部官僚・岡倉天真を通訳に伴ない日本美術を見聞する旅の過程で、廃仏毀釈によって荒廃した日本美術の保護を訴え、自分で美術品を買い取りアメリカに送った。それがボストン美術館にある日本美術のコレクションとなっている。
ある新聞記事によると、モ−スとフェノロサが故郷とするセ−ラムは、17世紀の魔女狩りで有名でホ−ソンの小説「緋文字」で有名なところだが、今日セ−ラムで動物学者・モ−スの名前は記念館などもできて人口に膾炙しているが、フェノロサの名前はほとんど知られていないという。

ところで、資本主義の思想のル−ツをカルビニズムからさらに古きにまで溯ると、旧約聖書に「ヤコブの産業」(創世記30章)とされる話があって、この辺りが資本主義思想の淵源があるのではないかと、思うのです。
「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と続く、あのヤコブは、ヤギと羊を育てそれを増殖させていくのですが、伯父ラバンと争いがおきないように、ラバンが純白の羊、ヤコブは斑点やまだら毛のある羊とそれぞれその所有をわける。ヤコブは強い動物が交尾する時に、若木の根の部分をはぎそのまだら部分を動物の目の前におき、自然とまだら毛をみたら発情するように仕組み、弱い動物にはその若木を見せなくして、自分の所有するヤギと羊を増殖させることに成功するのです。
ちょっと驚きの羊とヤギの増殖方法でラバンの息子達からは、父の財産を奪ったなどと批判されるが、それでも神はヤコブを良しとして、そのような智恵を与えてその産業を祝福したのである。
おそらくはカルビン主義つまり経済的成功が「神の救い」を表す、という考え方の背景にはこの旧約聖書のエピソ−ドがあると思います。
カルビンによると「誰が救われるか」はあらかじめ決まっているので経済的才覚のない人は「救われない」のではなく、仮に救われていたとしても救いの実としての「富」が表れないので、救いの確証がえられないという、なんだか間抜けな話です。
ところでユダヤ社会では、貧者や寡婦が生きていく経済的な配慮も行われていた。
それは、西欧の代表的な絵画であるミレ−の「落穂拾い」のインスピレ−ションの源になった旧約聖書の話「ルツ記」にある。
ユダヤには農民達が一日の労働を終えて収穫物を運ぶ時に自然に落ちていく穂は、わざと拾わずにそこに落としたままの状態にしておく慣わしがあった。貧民達があとからそれらを拾い集めて生活の糧にするためである。
ボアズという男の農場に、あまり見かけない二人の貧しい女性が落穂拾いにやってくるようになった。ナオミという女性と息子の嫁ルツの二人であった。ナオミは飢饉のために遠くモアブの地に寄留していたが、そこで夫を失い、モアブの娘ルツを嫁とした息子も失ったのである。
すべてを失った悲嘆の中ナオミはルツを連れて故郷のユダヤに戻り、たまたまボアズの農場で落穂拾いをすることになったのである。
ところで金持ちのボアズは、その貧しい二人の姿に胸をうたれ結局モアブの娘ルツと結婚することになる。実はナオミとルツは、この時思いもよらない血統に導かれていたことになる。
というのも、このボアズとルツの間で生まれたエッサイがダビデ王の父となり、その系図の八代あとにイエス・キリストが誕生することになるのです。
この話で感動的なのはルツの導きで、夫を失った後に姑と別れ住み慣れたモアブの地で暮らすこともできたのに、姑ナオミのヤハウェの神に対する信仰にひかれてユダヤの地にやってきたこと、そしてほとんど希望もない状態でボアズの農場に入ったのに、そこははからずも人類の祝福の源ともなる出会いが待っていたことです
(なお神による異邦人ルツの祝福は、パウロやペテロによる異邦人伝道の予兆ともなっています。)

凄惨な戦いや暗鬱な弱肉強食のエピソ−ドの中にひっそりとあるルツの物語ですが、新約聖書には、らい病人はじめ多くの病者が集まるベデスタの池(ヨハネ5章)の話がある。
時折、この池に天使がおりてきて水を動かした時、最初にはいった者の病が癒されるとして多くの病人が集っていたが、その瞬間を待って、病人達の間で激しい競争がおこっていた。
その病人達の中にも長年体が動かせずにすっかり絶望に浸るものもいた。
イエスがその池で38年もの間体を動かすことの出来なかった病者に出会い、その病を癒すというエピソ−ドです。

最近気になることは、グロ−バリゼ−ションの中で世界標準というものがやたら幅を利かせていること、資本主義システム、人権(労働保護規定解除など)、情報通信、などの面でそれがいえると思う。
世界標準になっていい面もあるのですが、世界中で弱肉強食の傾向がさらに強まっているように思う。
極端な言い方かもしれませんが、世界標準というのは強者のためにある、ということです。
それと、ミス・インタ−ナショナルつまり世界標準美コンテストでどんなに日本人が一位になろうと、日本人の美の感覚からはずれたものを、どうして手放しで喜べるでしょうか。